105、マルワーン1世(3)
文字数 941文字
684年6月22日(ヒジュラ暦64年ズルカアダ月3日)に最終的な合意に達し、次の後継者としてハーリド、その後にはもう一人の著名な若いウマイヤ家の人物であるアムル・ブン・サイード・ブン・アル=アース(アシュダクのラカブで知られる)がカリフとなる条件の下で、マルワーンがカリフの地位を継承することになった。
そして後に「ヤマン」として知られるようになるウマイヤ朝を支持するシリアの部族連合は、マルワーンを支援することと引き換えにマルワーンから経済的な補償を約束された。またヤマン族のアシュラーフ(部族の貴族層)は、マルワーンに対して以前のウマイヤ朝のカリフの下で保持していたものと同じ儀礼上と軍事上の特権を要求した。
そして、フサイン・ブン・ヌマイルはイブン・アッ=ズバイルが公然と拒否した内容と同様の条件の協定をカリフと結ぼうとした。これに対して、歴史家のモハンマド・リーハーンは、「シリア軍の重要性を認識していたマルワーンは彼らの要求に真摯に応じた」と述べている。またケネディは以下のように状況を要約している。「マルワーンはシリアでは何の経験も接点もなかった。マルワーンは自分を選出したヤマン族のアシュラーフに完全に依存していたであろう」
カルブ族と対立してイブン・アッ=ズバイルを支持した部族連合のカイス族はマルワーンのカリフ位継承に反対し、同様にイブン・アッ=ズバイルを支持していたジュンド・ディマシュク(ダマスクス)総督のダッハーク・ブン・カイスに対して戦争のために軍を動員するように求めた。これに応じたダッハークとカイス族はダマスクスの北のマルジュ・ラーヒトの平野に陣地を築いた。カルブ族が支配的な部族であったジュンド・アル=ウルドゥンを除き、シリアのジュンドのほとんどがイブン・アッ=ズバイルを支持していた。