90、ムアーウィヤ(2)

文字数 815文字

ムアーウィヤについての続きです。作品集は下の画像から入って下さい。
656年、第3代カリフ・ウスマーンが暗殺されて第4代カリフにアリーが就任すると、ムアーウィヤはウマイヤ家出身だったウスマーン(ムアーウィヤの又従兄弟にあたる)の血の復讐を叫んでアリーと対立した。スィッフィーンの戦いなどでアリーと戦ってしだいに勢力を拡大し、660年にはエルサレムにおいてカリフ就任を宣言。翌661年、アリーがハワーリジュ派によって暗殺され、自らもハワーリジュ派の刺客による襲撃を受けたがムアーウィヤは辛くもこれを撃退することに成功し、このことにより単独のカリフとなった。ムアーウィヤは本拠地シリアのダマスカスを首都に定め、カリフ位の実質的な世襲化を始めてウマイヤ朝を開いた。
ハワーリジュ派はアリーとムアーウィヤの両方を暗殺しようとしたのですね。
ムアーウィヤは、すでに歴代カリフの暗殺に見られるように、ハワーリジュ派などアラブ諸軍(ムカーティラ)の叛乱を抑制するため、軍や支配地域の俸給と租税を監督する官庁や勅令を管理する官庁を整備していわゆるディーワーン制度の確立を進め、各都市や宿場に駅馬を配置して駅逓制度(バリード)を敷設し、遠方に展開している駐留軍の改廃など軍事制度の整備など、指導者である預言者やカリフを中心とする部族集団の連合体だったイスラム共同体を国家体制として機能できるように整備に努めた。
ムアーウィヤが国の制度を整えたから、ウマイヤ朝は長く続いたのか。
680年、息子でウマイヤ朝後継者のヤズィードによって、アリーの子で後にシーア派の本流となるフサインとカルバラーのムスリムを虐殺した「カルバラーの悲劇」が起こる。これによってムアーウィヤのスンナ派がイスラムの覇権を築いた。ウマイヤ朝は世俗化し、アラブ帝国、イスラム帝国へと発展していく。のちのシーア派との深き対立を後世に残すこととなった。
次回からヤズィード1世について調べてみます。
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