17、ガレノス(2)
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ガレノスは目や脳を対象とするものも含めて、技巧に頼った無謀な手術も多く行った。それらは、その後2000年近くにわたり行われることはなくなった。例えば、白内障の手術では、水晶体の内側にまで長い針状の器具を突き通し、ゆっくりと引き抜いた。これは、わずかでもずれれば永遠に失明することになる方法である。もちろん、ガレノスは、他の手法に関しては現代の医療の標準となるものも打ち立てている。
162年にはガレノスはローマに移り、執筆活動や講義、公開解剖などを行った。彼は名医としての評判を得て、顧客にも恵まれた。その中にはコンスルのフラウィウス・ボエティウスもおり、彼によってガレノスは宮廷に招かれた。
ガレノスは主にギリシャ語で語ったという。当時は、医学分野ではラテン語よりもギリシャ語の方が上位と見なされていたのである。しかしどの学派にも所属していなかった彼は他の医師たちと対立し、166年から169年の間にペルガモンに戻ったとされている。
ペルガモンに戻ったガレノスは1年後にはマルクス・アウレリウス・アントニウス帝に呼び出されて再び宮廷に仕えた。マルクス・アウレリウスは長男が死亡したばかりであり、跡継ぎとなった息子のコンモドゥスの健康を維持させるためにガレノスをコンモドゥスの侍医とした。
父は賢帝なのに子供は暴君しかも子供時代は病弱で父が心配していたのに大人になったら剣闘士をするぐらい強くなって誰も手を出せない、ローマの皇帝は極端です。そんな皇帝に仕えていたガレノスは大変だったと思います。
ガレノスはコンモドゥスの治世中侍医を勤め続け、さらにその後の混乱を勝ち残ったセプティミウス・セウェルス帝の侍医にもなった。192年頃、大火が起きてガレノスの著作のかなりが焼失した。ガレノスは200年頃に没した。