96、ヤズィード1世(6)

文字数 1,333文字

ヤズィード1世についての続きです。作品集は下の画像から入ってください。
ムアーウィヤはビザンツ帝国に対する軍事行動の指揮官にヤズィードを任命することによって、シリア北部の部族からヤズィードへの支持を増やそうとしていたとみられている。しかし、カイス族はヤズィードが「カルブ族の女性の息子」であることを理由に、少なくとも当初は後継者への指名に反対したため、この方針は限られた成果しかもたらさなかった。
ムアーウィヤはヤズィードを後継者にするためにいろいろ考えていますね。
ヒジャーズ(マディーナとメッカが存在し、古くからのイスラーム教徒の支配層が居住していたアラビア半島西部の地域)ではヤズィードはウマイヤ家の親族から支持を得ていたが、同様にヒジャーズに居住する他の有力者層からの指名の承認を取り付けることも重要な要素を占めていた。ムアーウィヤはメッカ巡礼の引率者としてヤズィードを任命することでヤズィードの継承への支持を獲得し、イスラーム教徒の指導者としての立場を固めさせようと望んでいた可能性がある。10世紀の学者であるイスファハーニー(967年没)によれば、ムアーウィヤはヤズィードの継承を支持する世論をけいせいするために複数の詩人を雇っていた。
ムアーウィヤはあらゆる手段を使ってヤズィードを後継者にしようとしたようです。
歴史家のイブン・アル=アスィール(1233年没)の記録によれば、ムアーウィヤは676年に首都のダマスクスですべての地方の有力者が参加するシューラー(諮問のための会議の場)を招集し、媚びと賄賂、さらには脅迫といった手段を用いてヤズィードの継承に対する参加者の支持を取り付けた。
かなり強引ですね。
そしてウマイヤ家の親族で当時マディーナの総督であったマルワーン・ブン・アル=ハカムにこの決定をマディーナの人々へ周知させるように命じた。しかしマルワーンは、とりわけその徳のある血筋から同様にカリフの地位を主張することが可能であったフサイン・ブン・アリー(アリー・ブン・アビー・ターリブの息子でムハンマドの孫)、アブドゥッラー・ブン・アッ=ズバイル(ムハンマドの教友のアッ=ズバイル・ブン・アル=アウワームの息子で初代正統カリフのアブー・バクルの孫)、アブドゥッラー・ブン・ウマル(第2代正統カリフのウマルの息子)、さらにはアブドゥッラフマーン・ブン・アビー・バクル(アブー・バクルの長男)といったムハンマドの教友の息子たちによる反対に直面した。
他に有力なカリフの候補者が4人もいたのですね。
ムアーウィヤはマディーナへ向かい、これらの4人の反対者たちに対して同意するように圧力をかけたものの、4人全員がメッカへ逃れた。さらに逃亡者の何人かを追って殺害の脅しをかけたが効果はなかった。それにもかかわらず、ムアーウィヤは4人が忠誠を誓ったことをメッカの人々へ信じさせることに成功し、メッカの住民からヤズィードに対する忠誠を受けた。同様にダマスクスへ戻る途中でマディーナの住民からも忠誠を確保した。このようにムアーウィヤがヤズィードへの指名に対する全般的な承認を取り付けたことで、反対者たちは沈黙を余儀なくされた。
ムアーウィヤの強引さが後の争いを招いたと思います。
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