43、イスラム医学(1)

文字数 1,188文字

今回から何回かに分けて、イスラム文化の中で発展した医学について説明していこう。
作品集には下の画像から入ってください。
これは知恵の館で活躍したフナイン・イブン・イスハークの『ガレノス医学入門』より「目」の項目(1200年頃)です。
ムスリムやキリスト教ネストリウス派など、様々な宗教・人種の医師、錬金術師、薬剤師たちによる、解剖学・眼科学・薬理学・薬学・生理学・外科学・製剤科学などの医学領域への多大な貢献により、イスラム文化は古代ギリシャ・ローマの医学技術をさらに発展させた。
ガレノスとヒポクラテスが過去の典拠となっていた。830年ごろから870年ごろまでにガレノスの著作129点が、フナイン・イブン・イスハークとその助手たちによってアラビア語に翻訳された。
たくさんの本がアラビア語に翻訳されたのですね。
その中でも特にガレノスの主張する理性的・体系的な医学のアプローチが、イスラム医学のひな型として、イスラム帝国内に素早く広まった。医師によって初めて専門病院が設立された。専門病院はその後十字軍遠征の間にヨーロッパに広まったが、これも中東の病院から着想を得たものである。
ここでフナイン・イブン・イスハークについて詳しく見ていきます。
フナイン・イブン・イスハーク(808年頃ー873年頃)はユーフラテス川沿いのヒーラに生まれた。アッシリア人のネストリウス派のキリスト教徒であった彼は、ギリシア語・アラビア語のほかシリア語にも通じており、9世紀のアッバース朝カリフであるマームーンの時代に設けられた「知恵の館」の主任翻訳官を務めた。
アッバース朝はイスラム教の国ですよね。イスラム教の国でありながら、ネストリウス派キリスト教徒であるフナイン・イブン・イスハークが安心して暮らし研究を続けることができたということは素晴らしいことだと思います。
彼のもとでネストリウス派キリスト教の知識人が集められ、古代の医学書や哲学書の翻訳が推進された。その中にはプラトンの『国家論』やアリストテレスの『形而上学』、プトレマイオスの『シュンタクシス(数学全書、アルマゲスト』、ヒポクラテスやガレノスの医学書などが含まれた。翻訳にあたっては、ビザンツ帝国からも写本を購入して比較を行うなど、文献批判を通じて正確さにも留意した。
すごいですね。こうした活動があったから、貴重な本が失われずに僕たちの時代まで伝わったのですね。
フナイン・イブン・イスハークは翻訳事業と自分自身の研究の両分野にわたって、多数の執筆を行うことにその生涯を捧げた。
僕はフナイン・イブン・イスハークがネストリウス派のキリスト教徒だったということに驚きました。民族や宗教が違っても安心して研究に打ち込める環境だったのです。僕の生きている16世紀はそうではありません。宗教や宗派の違いによる激しい争いや弾圧があり、たくさんの人が殺されました。
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