107、マルワーン1世(5)

文字数 988文字

マルワーン1世についての続きです。作品集は下の画像から入ってください。
マルワーンはすでにジャービヤにおいてウマイヤ朝支持派の部族に認められていたが、7月もしくは8月にダマスクスで行われた式典でカリフとして忠誠の誓いを受けた。マルワーンはヤズィードの未亡人でハーリドの母であるウンム・ハーシム・ファーヒタと結婚し、これによってスフヤーン家との政治的な結びつきを得た。
え、そんな結婚をしていたのですか?
この時マルワーンは60歳前後だし、ウンム・ハーシム・ファーヒタもハーリドの母であるのだから、それなりの年齢だったと思います。
ヴェルハウゼンは、この結婚によってマルワーンがヤズィードの息子たちの継父となることで、ヤズィードの系統の継承権を奪おうと試みたとする見解を示している。また、マルワーンはシュルタと呼ばれる治安部隊の長官にガッサーン族のヤフヤー・ブン・ヤフヤー・アル=ガッサーニーを任命し、ハージブとして自身のマウラーであるアブー・サフル・アル=アスワードを任命した。
マルワーンの結婚や人事はかなり露骨ですね。
マルジュ・ラーヒトでの勝利とシリア中部におけるウマイヤ朝による権力の統合にもかかわらず、マルワーンの権威はウマイヤ朝がかつて領土としていた残りの地域では認められていなかった。ケネディによれば、ウバイドゥッラー・ブン・ズィーヤードとイブン・バフダルの助けを借りながら、マルワーンは「強い意志と行動力」を持ってウマイヤ朝の支配の回復に取り掛かった。マルワーンはシリア北部におけるウマイヤ朝の支配力を強化し、治世の残りの期間はウマイヤ朝の支配権の回復に力を注いだ。
1度失われた権威を取り戻すのは大変なことです。
マルワーンはパレスチナにラウフ・ブン・ズィンバーを派遣し、ラウフは同じジュザーム族の出身で部族の指導権を争う大公相手であったイブン・アッ=ズバイル派の総督ナティル・ブン・カイスをメッカに追放した。さらに、マルワーンは685年2月もしくは3月までにエジプトの首府であるフスタートのアラブ部族の有力者から重要な支援を得てエジプトの支配を回復することに成功した。エジプトのイブン・アッ=ズバイル派の総督であるアブドゥッラフマーン・ブン・ウトバは追放され、エジプト総督の地位にはマルワーンの息子のアブドゥルアズィーズが任命された。
色々な場所で総督が追放されたようです。
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