93、ヤズィード1世(3)

文字数 1,157文字

ヤズィード1世についての続きです。作品集は下の画像から入って下さい。
ヤズィードは642年から649年の間にシリアで生まれた。ヤズィードの父親はムアーウィヤ・ブン・アビー・スフヤーンであり、誕生当時は正統カリフのウスマーンの治世下でシリアの総督を務めていた。ムアーウィヤとウスマーンは、イスラームの預言者ムハンマドと先立つすべてのカリフが属していたクライシュ族(メッカの氏族集団)の中でも裕福な氏族であったウマイヤ家に属していた。
父ムアーウィヤは有力な氏族に属していたのですね。
ヤズィードの母親のマイスーン・ビント・バフダルは強力なベドウィンの部族であるカルブ族の族長のバフダル・ブン・ウナイフの娘であり、部族内のほとんどの人々と同様にキリスト教徒であった。ヤズィードは母方のカルブ族の親族と共に育ち、青年時代の初期をシリア砂漠で過ごした。その後は661年にカリフとなったムアーウィヤに仕えていた、ギリシア人と地元出身のシリア人からなる廷臣たちと共に過ごしていた。
父親と母親の部族や宗教が違い、子供の頃はずっと母方の親族と一緒に育ったのであれば、大人になってカリフの位を継承した時にかなり苦労したと思います。
父親がカリフの地位にあった間、ヤズィードはコンスタンティノープルへの攻撃を含むイスラーム国家が征服を試みていたビザンツ帝国(東ローマ帝国)に対するいくつかの軍事行動を率いていた。複数の史料においてヒジュラ暦49年(西暦669年ー670年)からヒジュラ暦55年(西暦674年ー675年)の範囲でこれらの軍事行動の日付が示されている。イスラーム教徒による史料は軍事行動におけるヤズィードの役割の詳細についてほとんど伝えておらず、恐らく本人の後の経歴に関する論争のためにヤズィードの関与を軽視している。ヤズィードはこれらの史料において遠征に参加することを望まなかったと描写されており、ムアーウィヤを苛立たせ、ヤズィードに対して命令に従うように強要した。
ヤズィードは戦争に行くのが嫌いだったのでしょうか。
しかし、8世紀にアル=アンダルス(イスラーム勢力下のイベリア半島)で非イスラーム教徒によって著された、より早い時期のアラビア語の著作から情報を引用した可能性のある『741年の年代記』と『754年の年代記』では、ヤズィードがコンスタンティノープルを100,000人の軍勢で包囲したと記録している。そして都市を征服することには失敗したものの、軍隊がコンスタンティノープルに隣接する複数の町を占領してかなりの量に及ぶ戦利品を獲得し、2年後に撤退したと伝えている。また、ヤズィードは何回かにわたってハッジ(例年のメッカへのイスラーム教徒の巡礼)を率いた。
史料は書く人によって評価がかなり変わってしまうこともあるのですね。
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