77、ラクダの戦い(2)
文字数 863文字
アリーの政敵だったズバイルとタルハは一度はアリーにバイアを行ったが、メディナを抜け出してメッカのアーイシャと合流し、アリーがウスマーン暗殺の黒幕であると言い立てた。アーイシャ、ズバイル、タルハはウスマーンの血の復讐を大義名分とし、656年10月にウスマーンの支持者が多いバスラに入城して彼らの助力を期待した。バスラへの進軍中、タルハ、ズバイルはイエメンのカアブ、ラビーアのムンズル、バスラのアフナフらに協力を求める書状を送ったが色よい返事は得られなかった。当初バスラの住民はアリー、アーイシャのいずれを支持するかで意見が分かれていた。しかし、アリーからバスラの統治を命じられていたウスマーン・ブン・フナイフは投獄され、イスラム教徒同士の戦闘の抑止を試みたサハーバのフカイム・ブン・ジャバラはタルハによって殺害される。フカイムが殺害された後、タルハとズバイルはバスラに潜伏していたウスマーン暗殺の関係者を処刑し、バスラを完全に掌握する。
ズバイルとタルハ以外にも第二代カリフ・ウマルの子アブドゥッラーもメディナを脱出しており、アブドゥッラーがウマイヤ家のムアーウィヤの統治するシリアに向ったことにアリーは衝撃を受ける。当初メディナの住民はムアーウィヤの報復、アーイシャら反乱軍の攻撃を恐れていたが、アリーの鼓舞によって勇気を奮い立たせ、戦列に加わる。アリーはウスマーンの政策に不満を抱いていたアラブ人が多いクーファに移り、アーイシャらに対抗した。アリーの移動に先んじて、アリーの腹心であるアシュタルはアリー軍への参加を呼びかけながらクーファに向い、クーファでアリーの受け入れの準備を整え、12,000人のクーファ市民がアリー軍に参加する。