24、ディオスコリデス(2)

文字数 1,196文字

ディオスコリデスについての続きです。作品集は下の画像から入ってください。
ディオスコリデスの『薬物誌』はヒポクラテス、ガレノスら他のギリシャ医学の文献と同様アラビアに伝わり、ギリシャ・アラビア医学(ユナニ医学)に取り入れられた。アラビア医学を代表するイブン・スィーナは主著『医学典範』の薬物に関する2巻・5巻を、『薬物誌』を典拠に執筆し、この本は後世の医学に大きな影響をあたえた。
私はイブン・スィーナのラテン語訳の本を1部読んで深い感銘を受け、なんとかして全て読みたいと思ったが、全部を手に入れることはできなかった。
『薬物誌』はヨーロッパでは1600年頃まで用いられ、植物学、本草学に関して、ヨーロッパの歴史上最も影響を与えた書物となった。多くの古代ギリシャの書物は、異教の文化としてヨーロッパで一度失われ、西洋文化の中心であったアラビアよりもたらされたり、中世盛期からルネサンス期に再発見されたものであるが、『薬物誌』はそれらと異なり古代より途絶えることなく流布していた。
僕たちの時代にはギリシャやローマ時代の本がかなり出回っていましたが、その多くがヨーロッパでは一度は失われていたというのはショックです。
西ローマ帝国の国力が落ちるにつれ、知力は低下し、ギリシャ語を使う人間も少なくなり、医書、本草書の内容は通俗化した。ディオスコリディスやガレノスのラテン語訳も作られたが、知力低下の影響は避けられなかった。また中世ヨーロッパでは『薬物誌』は「プラトン学派のアプレイウスの本草書」とされた『偽アプレイウスの本草書』など通俗化された医書と内容が混成される場合も少なくなかった。
本はそのままの形で伝えられることは難しく、内容が変えられたり通俗化してしまうこともあるのですね。
『薬物誌』はアラビア語には、854年にはすでにギリシャ語から直接翻訳がなされた。この訳は不完全なものであったが、948年までにすべてのアラビア語圏に出回っていた。10世紀、13世紀にも新たなアラビア訳が作られた。
中世まではアラビア語圏で医学の本は1番よく伝えられ、だからそこから優れた医者も出ているのですね。
近世の植物学にも強い影響を与え、オットー・ブルンフェルスやレオンハルト・フックスなど、16世紀ドイツの初期の植物学者たちの植物書は、ディオスコリデスに負うところが絶大であり、続くイギリスの植物書においてもジョン・ジェラードらが盛んに引用している。18世紀のイギリスの植物学者ジョン・シブソープは「ウィーン写本」を基に、『薬物誌』に記載された植物を探し出し確認する作業を終生行い、植物画家フェルディナント・バウアーと共に収集・研究を行った。彼の死後、研究はジョン・リンドリーが引継ぎ、1840年に『ギリシャ植物誌』として完成した。
僕の生きた時代よりかなり後になりますが、そうした研究の末に完成した本を見てみたいです。
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