97、ヤズィード1世(7)

文字数 1,286文字

ヤズィード1世についての続きです。作品集は下の画像から入ってください。
東洋学者のユリウス・ヴェルハウゼンは、著名なマディーナの住民による指名の拒否に関するこの記録はムアーウィヤの死後に起きた出来事の逆反映であるとして、上述の話の信憑性に疑問を呈している。同様の見解は歴史家のアンドルー・マーシャムからも示されている。歴史家のタバリー(923年没)の記述によれば、ムアーウィヤは676年に指名を公表し、地方の代表団は679年もしくは680年にイラクの駐屯地であるバスラから迎え入れたのみであり、この代表団がヤズィードに対する忠誠を誓ったとしている。
歴史は記録する人の立場によっては書き換えられていることもあり、そのことが後の時代になってから争いになったりするのですね。
一方、歴史家のヤアクービー(898年没)によれば、ムアーウィヤはメッカへの巡礼の際にヤズィードへの忠誠を要求した。これに対して上記の4人の著名なイスラーム教徒を除き、すべての人々が要求に従った。また、反対した4人に対してムアーウィヤが実力行使に出ることはなかった。いずれにせよ、ムアーウィヤは自分の死の前にヤズィードの継承に対する全般的な承認を確保することに成功した。
ムアーウィヤが必死になってヤズィードを後継者にしたことが、後の時代の争いの種になってしまう、歴史は残酷です。
ムアーウィヤは680年4月に死去した。タバリーによれば、ヤズィードは父親が死を迎えた時にダマスクスとパルミラの間に位置するフッワーリーンの自分の住居に滞在していた。一方アラビア語の詩歌集であるイスファハーニーの『キターブ・アル=アガーニー』(歌の書)ヤズィードの詩によれば、ヤズィードはムアーウィヤの最後の病気の知らせを受け取った時にはビザンツ帝国に対する夏季の遠征に出ていた。歴史家のアンリ・ラメンスはこの遠征に関する言及とヤズィードがムアーウィヤの死後になってようやくダマスクスに到着したという事実に基づき、ヤズィードがフッワーリーンに滞在していたという報告に否定的な見解を示している。
ムアーウィヤが亡くなる直前にヤズィードがどこにいたかについても意見が分かれているのですね。
ムアーウィヤはヤズィードが帰還するまで自身の最も忠実な配下であるダッハーク・ブン・カイスとムスリム・ブン・ウクバに政府の統制を委ねた。そしてヤズィードに対する遺言を作成し、イスラーム国家の統治にあたっての諸々の事案に関する指示を残した。遺言の中でムアーウィヤは、フサイン・ブン・アリーとイブン・アッ=ズバイルについてはヤズィードの支配に異議を唱える可能性があるため両者への警戒を怠らないように忠告し、もし両者がそのような行動に出た場合には打倒するように指示していた。さらにフサインについてはムハンマドの孫であるため注意深く扱い、その血を流すことないように助言していた、しかしもう一方のイブン・アッ=ズバイルに関しては、ヤズィードの統治を受け入れない限り厳しく対処することになった。
ムアーウィヤは自分の死後のことを本当に細かく考えて遺言を遺しています。
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