55、イブン・スィーナー(8)

文字数 856文字

イブン・スィーナーについての続きです。作品集は下の画像から入ってください。
1012年ごろ、イブン・スィーナーがジュルジャーンに滞在していた時、彼の弟子であるアル・ジュジャニーが師からの聞き取りを元に伝記の前半部を記述した。アル・ジュジャニーはイブン・スィーナーの死まで行動を共にし、伝記の後半部分を独自に記述した。アル・ジュジャニーの著した伝記はキフティーの編纂した『智者の歴史』に収録され、イブン・スィーナーの生涯を知る上での貴重な資料となっている。
アル・ジュジャニーという弟子がいたからこそ、彼の生涯は詳しくわかっているのですね。
ヒジュラ暦ではイブン・スィーナーの生誕1.000年にあたる1952年、ウズベク・ソビエト社会主義共和国時代のブハラでアヴィセンナ千年祭が開かれた。ソビエト連邦、イラン王国、トルコなどで盛大な式典が開かれ、多くの学者がイブン・スィーナーに関する論文を発表した。1981年にブカレストで開催された第16回国際科学史学会では、出席した各国の学者がイブン・スィーナーの事績を討論した。
いろいろな国の人間がイブン・スィーナーに関心を持ったというのは素晴らしいことだと思います。
1980年にはイラン・イスラム共和国によって墓所に霊廟が建立された。ペレストロイカ期にタジク人のナショナリズムが高揚した際、タジク知識人の中にイブン・スィーナーをタジク人と見なす動きが見られ、ウズベク知識人はこの動きに反発した。
ユダヤ人である僕からすれば、民族や人種、宗教の違いではなく業績で評価して欲しいですが、それが問題になる地域ほど何人であったかが重要視されてしまうのですね。
イブン・スィーナーは因習に縛られない考えの持ち主であり、同時代の学者であるビールーニーと書簡を通して自然科学の諸問題を議論していた。彼の父のアブドゥッラーフはイスマーイール派を信奉しており、イブン・スィーナー自身はイスマーイール派に入信しなかったが、その思想には共感を示していた。
イスラム教もまた多くの宗派に分かれていたのですね。
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