29、四体液説(2)
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古代ギリシアの医学はヒポクラテスの死後100年ほどたってから、ヒポクラテス(紀元前460年頃ー紀元前370年頃)の名のもとに『ヒポクラテス全集』にまとめられた。そこでは、人間の身体の構成要素として、臨床経験から2~4種類の体液が挙げられている。
ローマのガレノス(129年ー199年)は、ヒポクラテス医学をベースに当時の医学をまとめ、人間の体液は血液を基本に「血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁」の4つから成り、そのバランスが崩れると病気になるとする四体液説を継承し発展させた。ガレノス以後、体液病理説(四体液説)は、西洋文化圏で行われたギリシャ・アラビア医学の基本をなしており、19世紀の病理解剖学の誕生まで支持されていた。
体内の熱の過少によって生じる粘液は、ギリシャ語の燃えるという動詞からきている。古代ギリシャでは体の中で燃えるのは「炎症」または「消化」であると考えられたことから、冬に起こる炎症の産物が粘液と呼ばれた。
体内の熱の過剰によって胆汁が生じるが、数合わせのために黒胆汁が加えられ、黄胆汁、黒胆汁となったという。黄胆汁は血液の泡状のもので、軽く熱い。黒胆汁は、鬱状態の人の排泄物の色から名付けられたと言われる。黒胆汁には酸味があり、体を腐食させるとされた。
体液の種類は、最初から4種類で統一されていたわけではない。『ヒポクラテス全集』に収録された論文「人間の自然性について」の中では四大元素説の影響を受けて、人間は血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁の4つからできていると述べられており、これが主流の分類である。
どちらを採用するかは学派によって異なり、ヒポクラテスのコス派は血液・粘液・黄胆汁・黒胆汁の四体液説で、クニドス派は胆汁・粘液説であった。ローマのガレノスが四体液説を継承しギリシャ医学をまとめ上げたため、後世に残ったのは四体液説だった。
また、フォーレウス・リンドクヴィスト効果の発見者の一人である病理学者ロビン・フォーレウス(1888ー1968)は、四体液説は血液の観察に由来すると示唆した。血液を容器に入れ、空気にさらし室温で放置すると、上澄みと凝固部分に分かれる。この血清、白血球、赤血球、血餅が、黄胆汁、粘液、血液、黒胆汁の由来ではないかと推測した。