22、ガレノスの影響(3)
文字数 1,188文字
ガレノスはギリシャ語で本を書いていたため、ギリシャ語圏で比較的政情が安定していた東ローマ帝国で彼の著作は残った。ガレノスの教えは489年にネストリウス派がエデッサで開いていた学校が皇帝の命により閉鎖されると学者たちはサーサーン朝領内へ移住した。そしてアッバース朝になってから、フナイン・イブン・イスハークなどのバグダードの学者たちがガレノスの著作や他のギリシャ語の文献をアラビア語に翻訳した。
他に特筆すべきことは、ヒポクラテス以来の「医学の基礎には哲学が必須である」という考え方が、ガレノスの著作の受容によって後のイスラム世界における医学思想の方向性を決定付けたことである。それはアル・ラーズィー、イブン・スィーナー、マイモニデスらのようなイスラム世界の学者たちの主要な典拠となった。ガレノスの名はアラビア語では「ジャーリーヌース」として知られており、この名を持つ人々はイスラム世界では彼の末裔であると考えられている。
11世紀にはいると、モンテ・カッシーノの修道士だったコンスタンティヌス・アフリカヌスなどによってイスラム医学のテキストがアラビア語からラテン語へと訳されるようになり、ふたたびガレノスの説が西欧にもたらされることになった。