114、アブドゥルマリク(6)

文字数 941文字

アブドゥルマリクについての続きです。作品集は下の画像から入って下さい。
アブドゥルマリクは父親の側近として活動した。そしてダマスクスに拠点を構え、684年後半にマルワーンがイブン・アッ=ズバイルの支配下にあったエジプトを征服するために遠征に出ていた間、父親の代理として統治に当たった。
父親の代理として統治したということはかなり有能だったのか。
685年にマルワーンがエジプトの征服を終えて帰国するとシンナブラで評議が開かれ、そこでマルワーンはアブドゥルマリクをパレスチナの総督に任命するとともにカリフの後継者として指名し、アブドゥルマリクに続く後継者としてアブドゥルマリクの弟のアブドゥルアズィーズを指名した。マルワーンはこの指名によって、ヤズィード1世の息子のハーリドがマルワーンの後継者となり、ハーリドの後にはもう一人のウマイヤ家の人物で以前のマディーナ総督のアムル・ブン・サイード・アル=アシュダクが後を継ぐというジャービヤで取り決められていた後継者に関する合意を破棄することになった。それでもなお、マルワーンはヤマン族の有力者たちからアブドゥルマリクへの忠誠の誓い(バイア)を取り付けることに成功した。
マルワーンはやり方がうまいですね。
この後継者の変更と指名に関して、歴史家のジェラルド・R・ホーティングはアブドゥルマリクは政治的な経験が相対的に乏しかったにもかかわらず後継者に指名されたと主張しているが、一方でアブドゥルアメール・ディクソンはアブドゥルマリクが早い時期から「徐々に重要な地位に就いていた」ことが示すように、「政治的な能力と国家運営や地方行政に関する知識を持っていた」ことから選ばれたと主張している。
やっぱりアブドゥルマリクは徐々に重要な地位に就いていたと思います。
マルワーンは685年4月に死去し、アブドゥルマリクのカリフへの即位はヤマン族の有力者の手によって平和裡に行われた。9世紀の歴史家であるハリーファ・ブン・ハイヤートの記録によれば、アブドゥルマリクはエルサレムでカリフへの即位を宣言したとされているが、現代の歴史家のアミカム・エラドは。この記録について表面的には「信頼することができる」と認めている。
表面的にはという言い方はなんか裏もありそうですね。
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