110、アブドゥルマリク(2)
文字数 1,061文字
イスラーム国家の再統一後にビザンツ帝国との戦争が再開され、ウマイヤ朝はアナトリアとアルメニアへ進出するとともに698年には北アフリカのカルタゴを破壊し、後に北アフリカ西部とイベリア半島を征服するための拠点となるカイラワーンの支配を手にした。
東方ではイラクの総督となったアル=ハッジャージュ・ブン・ユースフがイブン・アル=アシュアスの反乱を鎮圧してホラーサーンを含む東方地域におけるウマイヤ朝の支配を確固なものとし、ハワーリジュ派の反乱も698年までに封じ込めることに成功した。晩年には最後の課題となっていた後継者問題で息子のアル=ワリード(ワリード1世)の継承を確保し、705年にダマスクスで死去した。
アブドゥルマリクは先任者たちの下での分権的な統治体制を改め、権力の中央集権化を推し進めた。軍事体制は現地の部族の有力者に依存した体制から中央のシリア軍を各地へ派遣する体制に変わり、地方の軍事力への依存度を低下させた。
地方の税収の余剰分はダマスクスへ送られるようになり、初期のイスラーム教徒による征服活動に従事した兵士とその子孫が受給していた伝統的な俸給は廃止され、兵士の俸給の受給対象は現役の者に限られるようになった。
また、アブドゥルマリクの改革の中で最も重要な政策となったのは、従来のビザンツ帝国とサーサーン朝の通貨に代わって単一のイスラーム通貨を導入し、シリアとイラクにおける官僚機構の公用語をギリシア語とペルシア語からアラビア語へ切り替えたことである。アブドゥルマリクはイスラーム教徒として育ったことやキリスト教勢力との対立、そしてイスラームの宗教者層による批判の影響から国家体制のイスラーム化を推進した。
エルサレムに岩のドームを建設したこともこのようなイスラーム化政策の一環であった。これらの改革によって後継者のワリード1世の治世における広範囲に及ぶ領土の拡大が可能となり、アブドゥルマリクが築いた中央集権的な統治体制は後の中世におけるイスラーム国家の原型となった。