87、アリー・イブン・アビー・ターリブ(4)
文字数 926文字
しかし、ウスマーンは自分の家系であるウマイヤ家を重視する政策を採ったため、クライシュ族の他の家系の反発を招き、656年に暗殺された。次のカリフ位をめぐって、ムハンマドの従弟で娘婿のアリーとウスマーンと同じウマイヤ家のムアーウィヤが争った。紆余曲折を経て、アリーが第4代のカリフに就任した。
アリーがカリフに就任するが、ムアーウィヤやムハンマドの晩年の妻で初代正統カリフのアブー・バクルの娘アーイシャはこれに反発した。アリーはまずアーイシャの一派をラクダの戦いで退けた。ムアーウィヤは、ウスマーンを暗殺したのはアリーの一派であるとして、血の報復を叫んでアリーと戦闘に至った。ムアーウィヤは、657年のスウィッフィーンの戦いでアリーと激突した。戦闘ではアリーが優位に立ち、武勇に優れたアリーを武力で倒すことは難しいと考えたムアーウィヤは、策略をめぐらせてアリーと和議を結んだ。この結果、ムアーウィヤは敗北を免れたことでウンマの一方の雄としての地位を確保し、アリーは兵を引いたことで支持の一部を失うことになった。
アリーがムアーウィヤと和議を結んだことに反発したアリー支持者の一部は、ムアーウィヤへの徹底抗戦を唱えてアリーと決別し、イスラーム史上初の文派と言われるハワーリジュ派(ハワーリジュとは「退去した者の意)を形成した。
ムアーウィヤは、660年に自らカリフを称した。ハワーリジュ派は、アリー、ムアーウィヤとその副将アムル・イブン・アル=アースに刺客を送った。アリーとその支持者は、勢力を拡大し続けるムアーウィヤとの戦いに加えて、身内から出たハワーリジュ派にも対処しなければならなくなり、疲弊を余儀なくされた。