86、アリー・イブン・アビー・ターリブ(3)
文字数 1,120文字
マディーナに移住した後、623年、ムハンマドはアリーに、娘のファーティマをアリーと結婚させるよう神が命じたと語った。この結婚はイスラーム教徒にとって、ムハンマドの親戚の最も重要かつ神聖な人物たちの結びつきと見なされていた。ほぼ毎日娘を訪ねてきたムハンマドは、アリーに近付き、「汝はこの世界でも来世でも私の兄弟である」と告げた。ムハンマドはファーティマに「私はあなたを私の一家の最愛の者と結婚させた」と告げた。
アリーの家族はムハンマドから頻繁に称賛された。彼らはまた「浄化のアーヤ」のような場合にクルアーンで栄光を与えられた。一夫多妻制は許可されたが、ファーティマが生きている間、アリーは他の女性を妻としなかった。ファーティマの死後、アリーは他の女性と結婚し、多くの子供をもうけた。
ムハンマドは632年に没し、ウンマは最初の危機を迎えた。
ウィルファード・マデルングによれば、アリーはムハンマドとの親密な関係とイスラーム教に関する幅広い知識によって、ムハンマドの後を継ぐのに最適な人物であると考えられていた。
そこで、ムハンマドの晩年の妻アーイシャの父アブー・バクルが選挙(ムスリムの合意)によって指導者に選ばれ、ムハンマドの代理人を意味するカリフ(ハリーファ)を名乗った。アリーは若さを理由に外されたと言われている。
アラビア半島の統一を達成したアブー・バクルは634年に病死し、ムハンマドの妻の1人ハフサの父ウマルが後継者に指名された。ウマルは中央集権的なイスラム帝国を築き上げ、642年のニハーヴァンドの戦いでサーサーン朝を滅亡寸前に追い込んだが、644年に奴隷に刺されて重傷を負い死の床に有力者を集めて後継者を選ばせ、絶命した。
このときの後継候補にはアリーも含まれていたが、後継カリフに選出されたのは、ムハンマドの2人の娘ルカイヤとウンム・クルスームを妻としていたウスマーンであった。ウスマーンは650年頃にクルアーン(コーラン)の正典(ウスマーン版)を選ばせ、651年にサーサーン朝を完全に滅亡させるといった功績を挙げた。アブー・バクル、ウマル、ウスマーンと、その次にカリフとなったアリーの4代を、正統カリフという。