72、イブン・ハンバル(3)

文字数 1,190文字

イブン・ハンバルについての続きです。作品集は下の画像から入って下さい。
アッバース朝のカリフ位にマァムーンが在位した時代の終盤から次代のムゥタスィムの在位年間にかけての時代は、イブン・ハンバルにとって迫害の時代になった。マァムーンはムゥタズィラ学派の学者ビシュル・マリースィーの意見を取り入れてムゥタズィラ学派の教説を国家公認の思想とした。
後の時代には迫害され、著作がほとんど禁書になったムゥタズィラ学派がその時は国家公認の思想になっていたのですね。
イブン・ハンバルは「クルアーン=被造物」説というムゥタズィラ派の説に激しく反発し、同説が正統に反すると説いた。このことは当時タルスースにいたマァムーンの耳に入り、バグダードにいたイブン・ハンバルはムハンマド・ブン・ヌーフという別の批判者とともに鎖で繋がれてカリフの面前に引き出されることになった。ところがアッカを過ぎたあたりでマァムーン病没の報を受け、二人ともバグダードへ戻されることになった。しかし、この過酷な旅でムハンマド・ブン・ヌーフは死に、生き残ったイブン・ハンバルもバグダードの複数の牢獄をたらいまわしにされた。
酷いですね。ムゥタズィラ学派は神や人間について理性的に考えるところから始まっているのに、権力と結びついたら今度は批判する人を迫害するようになっています。
新しいカリフのムゥタスィムは異端審問(ミフナ)を廃止するつもりであったけれども、「国家の体面を保つため」というムゥタズィラ派の法官長の意見を容れて、イブン・ハンバルを呼び出したと言われている。ヒジュラ暦219年ラマダーン月にカリフの前でイブン・ハンバルは、クルアーンが作られたものであると信じることを頑固に拒み、鞭打たれた。そして2年間投獄された。出獄後もムゥタスィムの世の間は自邸に隠棲し、個人的なハディースの教授にとどまった。次代のワースィクの間も同様で、その次のムタワッキルの即位(847年)以後、公の場に姿を見せるようになった。
僕はイスラム社会についてよくわからないけど、このような迫害があったというのはショックです。
イブン・ハンバルはヒジュラ暦241年第1ラビー月(西暦855年7月)に病気になり、その後まもなくバグダードで亡くなった。ユリウス暦換算で75歳である。葬儀には何万人もの人が参列し、数千人のユダヤ教徒やキリスト教徒がその日に改宗したと伝えられている。
最後は認められ、多くの人に影響を与えているのですね。でも、それほどの学者が、権力者が取り入れた教説を批判したという理由で迫害されるのはおかしいです。後の時代になればむしろムゥタズィラ派が迫害され、イブン・ハンバルの方が認められているのですから。
宗教は権力と結びついた時に今度はその権威を守ろうとして批判する者を徹底的に弾圧し迫害する。いつの時代、どの宗教でも同じことを繰り返してきた。
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