115、アブドゥルマリク(7)
文字数 878文字
アブドゥルマリクが即位した当初、最も重要な役職はアブドゥルマリクの一族が保持していた。弟のムハンマドはカイス族の鎮圧を任され、アブドルアズィーズは705年に死去するまでエジプトの総督として現地の平和と安定を維持した。
治世の初期においてアブドゥルマリクはイブン・バフダルやラウフ・ブン・ズィンバーを含むシリアのヤマン族の有力者を重用し、これらの者たちが政権の中枢を担っていた。特にラウフ・ブン・ズィンバーは、最高位の大臣や後のアッバース朝時代のワズィール(宰相)に相当する役割を果たした。
さらに、アブドゥルマリクのシュルタ(精鋭の治安部隊)を率いるのは常にヤマン族出身者であった。最初にシュルタの長官に就任したのはヤズィード・ブン・アビー・カブシャ・アッ=サクサーキーであり、同じくヤマン族出身のカアブ・ブン・ハーミド・アル=アンスィーが後任となった。カリフのハラス(個人護衛)は通常マウラー(非アラブ系イスラーム教徒の解放奴隷、複数形ではマワーリー)が率い、マワーリーが配属されていた。
ウマイヤ朝はシリアとエジプトにおける支配を回復させていたものの、アブドゥルマリクは自身の権力に関するいくつかの課題を抱えていた。イスラーム国家のほとんどの地域はイブン・アッ=ズバイルを引き続き承認していたが、その間にもカイス族はズファル・ブン・アル=ハーリス・アル=キラビーの下で再編され、戦略上の要衝でシリアとイラクの境界に位置するカルキースィヤーのユーフラテス川沿いの要塞からジャズィーラに対するウマイヤ朝の支配に抵抗した。