21、ガレノスの影響(2)

文字数 1,334文字

ガレノスの著作はギリシャ語圏で政情が安定していた東ローマ帝国に残り、またネストリウス派の学者が追放されてサーサーン朝に移住したことにより、ガレノスの医学はヨーロッパではなくイスラム世界に広く伝えられることになった。
作品集には下の画像から入ってください。
中世イスラム世界の医師たちの多くは、古代ギリシャの業績、四体液説のようにガレノスによって説明されたものに頼った。
古代ギリシャの医学もガレノスがまとめたものが中世のイスラム社会に伝わったということですね。
ガレノスのギリシャ語作品の大半は、まずサーサーン朝時代にシャープール1世がイラン南西部のフーゼスターン地方に建設した都市、ジュンディーシャープールにおいて、サーサーン朝後期からアッバース朝時代にかけてこの地の大学でネストリウス派の僧侶たちによりパフらヴィー語やシリア語に訳された。
サーサーン朝はイラン高原、メソポタミアなどを支配した帝国(226年ー651年)です。公用語はパフラヴィー語、パルティア語(準公用語)、ギリシャ語(コイネー)で宗教はゾロアスター教(公式)ズルワーン教(公式)、マニ教、仏教、キリスト教ネストリウス派、ユダヤ教、マズダク教などがありました。
サーサーン朝がなければ、ガレノスの医学は後世に伝わらなかったかもしれないのですね。
アッバース朝は750年から1517年まで続いたイスラム帝国で、公用語はアラビア語、宗教はイスラム教スンナ派です。
フナイン・イブン・イスハークらをはじめとするバグダードの学者たちは、これを他のギリシャ語文献ともどもアラビア語に訳した。
フナイン・イブン・イスハーク(808ー873頃)はユーフラテス川沿いのヒーラに生まれ、アッシリア人のネストリウス派のキリスト教徒でした。彼はギリシャ語、アラビア語の他にシリア語にも通じていて、9世紀のアッバース朝カリフであるマームーンの時代に設けられた「知恵の館」の主任翻訳官を務めました。
こういう人がいたおかげで貴重な本が僕たちの時代まで伝わったのですね。
フナイン・イブン・イスハークのもとでネストリウス派キリスト教の知識人が集められ、古代の医学書や哲学書の翻訳が推進されました。その中にはプラトンの『国家論』やアリストテレスの『形而上学』、プトレマイオスの『シュンタクシス(数学全書、アルマゲスト)』ヒポクラテスやガレノスの医学書などが含まれていました。
異端とされたネストリウス派キリスト教徒がサーサーン朝やアッバース朝のイスラム世界に逃れて、そこで貴重な本の翻訳をしていたのか。こうしたことがなければ、多くの本が永遠に失われていたに違いない。
特にアッバース朝時代にガレノスの著作の多くがアラビア語に訳されたが、フナインが編集したガレノスの著作目録には現存するギリシャ語文献では散逸したものも含まれており、研究資料として有益とされている。ギリシャ語版で失われた著書の中には倫理学関係ものとして『性格について』などもアラビア語訳が伝わり、倫理学関係の思想に大きく影響を与えている。
有名なガレノスの医学や著作が、異端とされたネストリウス派の学者がイスラム世界に持ち込み、そこで翻訳されたことで後世まで伝えられたということに驚きました。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

背景色
  • 生成り
  • 水色