92、ヤズィード1世(2)

文字数 849文字

ヤズィード1世についての続きです。作品集は下の画像から入って下さい。
ヤズィードは下賜品や使節団を通してアブドゥッラー・ブン・アッ=ズバイルとヒジャーズの住民から忠誠を確保しようとした。しかし一連の交渉は失敗に終わり、反乱を鎮圧するために軍隊を派遣した。ヤズィードの軍隊は683年8月に起こったハッラの戦いでマディーナの住民を打ち破り、その後メッカへ進軍した。そしてメッカを数週間にわたって包囲したものの、包囲戦の最中の683年11月11日にヤズィードは死去した。
結局ヤズィード1世のカリフの在位は短期間で終わってしまったのですね。
ヤズィードの死の知らせを受けた軍隊はシリアへ撤退し、その後イスラーム国家は9年にわたって続いた第二次内乱として知られる混乱状態に陥った。最終的に内乱はヤズィードが属していたスフヤーン家に代わってウマイヤ朝の王家となったマルワーン家の出身であるアブドゥルマリクの治世下で集結した。
ムアーウィヤはカリフ位を世襲したけど、直系で長く続いたわけではないのですね。
政策面でヤズィードはムアーウィヤが敷いていた分権的な統治体制を踏襲し、地方の総督と部族の有力者層(アシュラーフ)に統治を委ねた。またビザンツ帝国(東ローマ帝国)に対してはムアーウィヤが開始した大規模な襲撃を放棄し、シリアの防衛体制の強化に専念した。

ヤズィード1世はどちらかというと攻めるより守るタイプの人ですね。

評価面では自身の世襲によるカリフ位の継承、フサインの殺害、そしてイスラームの聖地であるマディーナとメッカへの攻撃といった出来事のために、多くのイスラーム教徒からは伝統的に非合法な統治者であり暴君であったと見なされている。一方で現代の歴史家は一般により穏健な見方をしており、東洋学者のユリウス・ヴェルハウゼンは、必要な場合にのみ実力行使に訴えていた穏やかな統治者であり、宗教的な伝統において描写されているような暴君ではなかったと評している。
ヤズィード1世のような人物は評価が極端に分かれてしまうのですね。
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