108、マルワーン1世(6)

文字数 1,045文字

マルワーン1世についての続きです。作品集は下の画像から入ってください。
その後、アブドゥッラー・ブン・アッ=ズバイルの弟であるムスアブ・ブン・アッ=ズバイルの率いる遠征軍がパレスチナへ侵攻してきたものの、アシュダクの率いるウマイヤ朝軍が撃退に成功した。しかし、マルワーンが反対にヒジャーズへ派遣したクダーア族のフバイシュ・ブン・ドゥルジャが率いる遠征軍は、マディーナ東方のラバダでイブン・アッ=ズバイル側の軍隊の前に壊滅的な敗北を喫した。
なかなかうまくいかないですね。
一方、これと同時期にマルワーンはユーフラテス地方中部のカイス族の動きを抑えるために息子のムハンマドを派遣し、さらにイブン・アッ=ズバイルを支持する勢力とアリー家を支持する勢力(この勢力は正統カリフのアリーとその子孫を指導者として仰ぐイスラームの宗派であるシーア派の端緒となった)からイラクを奪回するために、ウバイドゥッラー・ブン・ズィヤードが率いる遠征軍を685年の上旬に派遣した。
この頃の出来事がスンニ派とシーア派に分かれるきっかけとなったようです。
史料によって期間にずれはあるものの、マルワーンは6か月から10か月の間の統治の後、685年(ヒジュラ暦65年)の春に死去した。マルワーンの死の正確な日付は中世の史料からははっきりとしていない。歴史家のイブン・サアド、タバリー、ハリーファ・ブン・ハイヤートは4月10日か11日(シャアバーン月29日)マスウーディーは4月13日(ラマダーン月3日)、ニシビスのエリヤは5月7日としている。ほとんどの初期のイスラーム教徒による史料ではマルワーンはダマスクスで亡くなったとされているものの、マスウーディーはティベリアス湖に近いシンナブラにある冬の住居で死去したとしている。
亡くなった日付も場所もはっきりしたことはわかってないのですね。
伝統的なイスラーム教徒による史料の中で広く伝わっているものとしては、マルワーンが妻のウンム・ハーシム・ファーヒタに対して名誉を傷つけるような酷い侮辱の言葉を吐いたために、報復として就寝中に殺害されたというものがある。
え、そんな殺され方をしたのですか?
しかし、この話はほとんどの西洋の歴史家からは史実とはみなされていない。また、マスウーディーの記録から、ボズワースらはマルワーンが死去した時期にシリアを襲っていた伝染病が死の原因だったのではないかと疑っている。
イスラム教徒の間でそのような噂が広がったということは、評価がよくなかったからでしょうか。
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