80、スィッフィーンの戦い(1)
文字数 1,000文字
スィッフィーンの戦いは、657年6月ー7月にユーフラテス川上流域(シリア北部)のスィッフィーンで行われた第4代正統カリフ、アリー・イブン・アビー・ターリブとシリア総督ムアーウィヤの戦い。イスラーム史における第一次内乱(656年ー661年)の山場。この戦いの結果、アリーの政権が分裂してハワーリジュ派が登場し、彼らによってアリーが殺害され、ムアーウィヤがカリフとなってウマイヤ朝を建てる。
656年、第3代正統カリフ・ウスマーンがマディーナで反対派によって暗殺された。ウスマーン殺害者らは、預言者ムハンマドの娘婿で人望厚いアリーを新たなカリフとして擁立した。しかしウスマーンの従兄弟であったシリア総督ムアーウィヤはアリーのカリフ位就任に異をとなえ、ウスマーン殺害者の糾明と処刑を求めた。アリーはウスマーン殺害に関与したわけではないとされるが、ウスマーン殺害者を処罰するための力を持たず、彼らと妥協せざるを得なかった。そのためムアーウィヤはアリー自身がウスマーン殺害に直接関わったものと判断し、ウスマーンの復讐とアリーの打倒を主張した。
9月はじめ、ムアーウィヤはアリーに使者を送って事実上の宣戦布告を行った。アリーはシリア遠征の準備をはじめたが、その直後、かねて反アリーの態度を取っていたサハーバのタルハとズバイル、および預言者ムハンマドの寡婦アーイシャがメッカで挙兵し、第一次内乱がはじまった。アリーは南イラクのバスラ郊外でのラクダの戦いで彼らを破り、そのままメディナへ戻らずにクーファに入城し、ここを新たな拠点とした。