妖怪二口女 その一

文字数 2,225文字




 なんだか、とても疲れきったが、約束の時間までには兄の指定した居酒屋についた。見なれた暖簾をくぐって、なかへ入ると、兄が来て待っていた。

「やあ、待った?」

 いつもはカウンターに席をとる兄だが、今日はナイショの話があるせいか、すみのテーブル席にすわっている。
 龍郎は向かいにすわりながら、声をかけた。

「いや、おれも今、来たとこだ」

 たしかに、兄の前にはビールとつきだししかない。まだ注文していないようだ。

 龍郎はメニューを見て、勝手に豚の生姜焼き定食をたのむ。
 兄は酒のさかなをいくつか注文した。が、それにしても顔色が悪い。食欲もないようだ。

「ぐあい悪いの?」
「いや……」
「ならいいけど、仕事、ムリしてるんじゃないのか?」
「そうじゃないんだ」
「じゃあ、心配ごと?」

 たずねると、兄は長々とため息を吐きだした。ため息といっしょに胃の腑が出てきそうだ。やはり、悩みがあるようだ。だからこそ、とつぜん電話をかけて、龍郎を呼びだしたのだろう。

「話があるんなら聞くけど」

 兄は周囲の耳目を気にするように声をひそめた。

「こんなこと、おまえにしか話せなくて」
「ああ。二人きりの兄弟だからね。なんでも言ってよ」

 兄は昔からマジメで、そのぶん悩みも多かった。責任感が強すぎるのだ。気にしなくていいことまで気になるらしい。

 その点は龍郎のほうが楽天家なので、兄の相談を受けることは初めてではなかった。そんなこと大した問題じゃないよ、兄さんならできるよと言ってやれば、「まったく、おまえは呑気だな」と、兄は笑いとばすのだった。

 だから、今回もこれまでと同じだと思っていた。
 仕事のことや先行きのことで、ちょっと不安になったのだろうと。

 まさか、兄があんなことを言いだすとは思わなかった。

「じつはな。繭子(まゆこ)のことなんだが……」
「うん?」

 繭子は兄嫁の名前だ。
 さては、新婚早々、ケンカでもしたのだろうか?

「義姉さんが、どうかした?」
「……あいつ、あるんだよ」
「あるって、何が?」
「歯だよ」

 つかのま、兄の言っている意味がわからない。

「そりゃ、あるだろうね。入れ歯の年じゃない」

 兄はもどかしそうに首をふった。

「上じゃない。下だよ」
「はっ? 何言ってんだか、わからないんだけど」
「だからな。あいつ、下の口に歯があるんだよ」

 さすがに鈍感な龍郎にも、兄の言わんとする意味がわかった。

「つまり、その、女性の……にってことか?」

 兄はだまって、うなずく。
 龍郎は反応に困った。これは兄の冗談だろうか?
 それとも、のろけの一種だろうか……。

「えーと……」

 返答に窮していると、兄の目つきが急に険しくなる。

「本気にしてないだろ? どうせ、おれの頭がどうかしたと思ってるんだろ? でも、ほんとなんだ。あいつ、かむんだよ。ふだんは何もない。でも、興奮してくると、歯が生えてきて、かむんだ。甘噛みだけどな」

 やっぱり、のろけだろうかと、龍郎は思う。

 兄はイラだったように、こぶしでテーブルをたたいた。周囲の視線が集まる。あわてて、龍郎は頭をさげる。

「兄さん」
「……悪い。けど、ほんとなんだ。あいつ、人間じゃない。おれ、殺されるかもしれない」

 これは、マズイ。
 兄は心を病んでいる。
 おそらく、結婚生活が予想以上にストレスだったのだ。

 どうしたらいいのだろうと、龍郎は困惑した。
 とにかく、原因を聞きだして、ストレスを緩和させるべきだ。場合によっては義姉にも相談したほうがいいかもしれない。それで症状がよくならなければ、専門医に診せるよう父と話しあうしかない。

 まずは兄の家庭の現状を把握しておかなければならない。
 龍郎は自然をよそおって言いだした。

「今晩、泊めてもらおうかな。義姉さんがほんとにそうなら、ぼろを出すかもしれない。観察してみよう」
「ああ。頼む」
「着替え持ってこないと」
「おれのを貸すよ」
「さすがにパンツはちょっと」
「使ってない新品のやつがある」

 まあ、たしかに、今日はもう電車に乗りたい気分ではない。
 たぶん、あれはテレビのドッキリのロケか何かだったのだろうが、心の底から恐怖した。あんな思いは二度としたくない。

「わかった。じゃあ、よろしく」

 そのあとは一言も発することなく食事を終えた。
 居酒屋を出たときには、あたりには濃い闇がおりていた。
 駅裏のせいか、街灯の数が少ない。
 なんだか暗闇がやけに恐ろしく思えた。

 裏道を通って歩いていった。

「いつから義姉さんのこと、そんなふうに思うようになったんだ?」
「結婚して二週間くらい経ってからだ」
「じゃあ、もっと早く相談してくれればよかったのに」

 そうしたら、こんなにひどくなるまで、ほっとかなかったのにと悔やまれてならない。

 兄の住居は裏道ぞいにある一軒家だ。兄の収入なら駅前の分譲マンションだって買えただろうに、庭つきの一戸建てに住みたいと義姉が言ったらしい。古くさい昭和の香りのする二階建てだ。

 見おぼえのあるお稲荷さんの赤い鳥居の前をすぎ、兄の家の近くまで行くと、誰かが立っていた。門灯の明かりにシルエットになって、よこ顔がかすかに見える。

(あれは?)

 暗くて、よく見えないが、なんだか見たことがあるような……。

 近づくごとに、その麗しいおもてが見わけられるようになり、龍郎の胸は高鳴る。

 門前まで来ると、その人はふりかえった。まちがいない。あの人だ。電車のなかで出会った絶世の美女。あらためて見ても、魂を吸いとられそうに美しい。
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登場人物紹介

 本柳龍郎《もとやなぎ たつろう》


 このシリーズの主人公。二十二歳。

 容姿は本編中では一度も明記されていないが、ふつうの黒髪、ノーマルな髪型、色白でもなく黒すぎもしない平均的な日本人の肌色、黒い瞳。身長は百八十センチ以上。足は長い。一般人にしては、かなりのイケメンと思われる。

 正義感の強い爽やか好青年。とにかく頑張る。子どもや弱者に優しい。いちおう、青蘭に雇われた助手。

 二十歳のとき祖母から貰った玉が右手のなかに入ってしまった。それが苦痛の玉と呼ばれる賢者の石の一方で、悪魔に苦痛を与え、滅する力を持つ。なので、右手で霊や悪魔にふれると浄化することができる。

 八重咲青蘭《やえざき せいら》


 龍郎を怪異の世界に呼び入れた張本人。二十歳。純白の肌に前髪長めの黒髪。黒い瞳だが光に透けて瑠璃色に見える。悪魔も虜にする絶世の美貌。

 謎めいた美青年で暗い過去を持つが、じつはその正体は……第三部『天使と悪魔』にて明かされています。

 アスモデウス、アンドロマリウスという二柱の魔王に取り憑かれており、体内に快楽の玉を宿す。快楽の玉は悪魔を惹きつけ快楽を与える。そのため、つねに悪魔を呼びよせる困った体質。龍郎の苦痛の玉と対になっていて共鳴する。二つがそろうと何かが起こるらしい。

 セオドア・フレデリック


 第二部より登場。

 青蘭の父、八重咲星流《やえざき せいる》のかつてのバディ。三十代なかば。銀髪グリーンの瞳のイケメン。職業はエクソシスト専門の神父。第五部『白と黒』にて少年期の思い出が明らかに。

 遊佐清美《ゆさ きよみ》


 第二部より登場。

 青蘭の従姉妹。年齢不詳(たぶんアラサー)。

 メガネをかけたオタク腐女子。龍郎と青蘭を妄想のオカズに。子どものころから予知夢を見るなどの一面も。第二部の『家守』で家族について詳しく語られ、おばあちゃんが何やら不吉な予言めいたことを……。

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