迷宮の扉 その四
文字数 2,051文字
まだ早朝の薄もやのなか、青蘭は漁港へ急いだ。一週間ぶんの水と食料を買いこみ、島まで運んでくれる漁師を探した。
島に到着したころには、すっかり明るくなっていた。
「これ、謝礼です。一週間したら、迎えに来てください。また同じ額を払うから」
札束を一つ渡して、漁師とは別れた。
まずは船着場に近い診療所へ向かう。船でなければ来ることのできない場所だ。ノリで肝試しに来れるようなところではないから、建物は荒らされていない。造りのしっかりした鉄筋コンクリートの建物は、以前と何も変わっていなかった。
「嫌になるくらい、昔のまま」
青蘭のつぶやきを聞き、最上がふりかえる。
「何か言った?」
「いいえ。食料、玄関ホールに置いてください。鍵はあけてありますから」
「おれが一人で運ぶのか?」
「だって、そのための助手でしょ?」
最上はさんざん文句を言っていたが、青蘭の耳には入らない。
「最上さん。あなたは診療所を片づけておいてください。今夜、寝られるベッドがないとね」
「おいおい。雑用係だな。これでも医者なんだけど?」
「助手ってのは、こんなもんです。雇いぬしは僕」
ブツブツ言っている最上を残して、青蘭は一人、歩きだす。
島の大半は山。
岩地に草が生え、荒野のような風景だ。まわりは澄みきった南国の海なのに、この島だけが呪われた地のように見える。
あんなことがあった島だからだろうか?
屋敷が全焼するほどの大きな火事。
屋敷にいた人間は、青蘭以外、全員、死んだ。父も、母も。
自分もあのとき死んだほうがマシだと、何度、思ったことか。
火事の記憶がないから、そのときの苦しみがどのていどのものかはわからない。炎を見ただけで今でも硬直するから、きっと、とても辛かったのだろうとは思う。
だが、ほんとうに地獄だったのは、そのあとだ。
屋敷が燃えているのを見つけたのは、定期的に食料を運んでいた漁師だった。救助が来たとき、なぜか青蘭は焼け跡の外にいたのだという。全身の八割が焼けただれ、生存の確率はきわめて低かった。
大至急、ドクターヘリで福岡の病院に運ばれた。そこでの治療は生命を維持することが最優先された。一命はとりとめた。ふつうの子どもなら死んでいても不思議じゃなかったらしい。
たぶん、青蘭には、そのときすでにアンドロマリウスが取り憑いていた。それで、助かったのだろう。
その後、祖父が事故の知らせを受けて、この島に青蘭だけを診る専用の診療所を造った。大事故で奇跡的に生きのびた、たった一人の孫を、世間から隔離するために……。
(火事のとき、何が起こって、僕はこうなったのか? 僕を呪われた生き物にしたのは、僕自身? それとも……?)
以前、フレデリック神父が言っていたことを思いだす。
青蘭の祖父が悪魔だったという噂を。そして、その祖父は、じつは今も、ひそかに生きているのだという。
その噂には、あるていど信憑性がある。なぜなら、祖父は賢者の石や聖遺物をコレクションしていた。ただの金持ちの道楽と言えなくもないが、悪魔なら欲しがるようなものばかり。
とくに今現在、青蘭のなかにある“快楽の玉”は、悪魔を魅了し、惹きよせる。
祖父が悪魔だったから欲したとも考えられるのだ。
もしそうなら、一つの仮説が成り立つ。
青蘭をこんな生き物にしたのは、祖父かもしれない——と。
青蘭は祖父の悪魔的な探求の実験台になったのではないだろうか?
(人間の体に賢者の石を埋めこむと、どうなるか、とか? それとも、もっと別の目的かな? 僕の想像もつかないような?)
青蘭は荒地をふんで進んでいった。
記憶にはないが、診療所のある港から、その場所はちょうど正反対の位置にあると聞いたことがあった。
行くのは初めてだ。
子どもの青蘭には診療所の外の世界に興味を持つゆとりはなかったし、ここを出ていくときは、島全体が
今でも耳にこびりついている。
毎晩、泣き叫んだ幼い自分の声が。
(ずっと助けを求めていた。でも、誰も助けてはくれなかった。僕のまわりには悪魔しかいなかった。人間は必ず僕を裏切る。悪魔の顔を持っている。悪魔を身の内に宿していない人間なんていない)
悪魔より悪魔らしい人間と、正真正銘の悪魔にかこまれていた。
世界とはそんなものだと信じていた。
固い岩と貧弱な雑草をふみしめて、今、その場所に立つ。
悪夢の始まりの場所に。
もしも、その場所でなくした記憶をとりもどしたら、自分はどうなるのだろうか? 自分は自分でいられるのだろうか?
僕の体のどこまでが僕のもので、どこからがアンドロマリウスにとられたものなんだろう?
僕は、ほんとに今でも僕なんだろうか?
とっくに別の何かに、すりかわっているんじゃないのか?
わからない。でも……。
五歳の青蘭に会うために、二十歳になった青蘭は、この場所に帰ってきたんだ。
さあ、ひらけ。
迷宮の扉——
了