緋色ひとひら その二

文字数 2,182文字

 キシキシと廊下の木の板の軋む音がして、暗がりから人が現れた。
 白地に赤い花模様の着物を着た女だ。きれいに黒髪を結って、大人びて見えるが、まだ二十代の初めではないかと思える。

 いや、というより……。

「冴子さん?」

 思わず口走ってから、龍郎は自分の間違いに気づいた。一瞬、似ているような気がしたが、よく見れば違う。冴子は現代風のキュートでコケティッシュな顔立ちだった。だが、今、目の前にいる女はもっと古風で、能面の小面をリアルに人間にしたようだ。美人ではあるものの、なんとなく怖い。

 そもそも、冴子は死んだ。
 こんなところにいるはずがない。

「あっ……すみません。こちらは旅館ですか? 湯巡りをやってるとこなら、入らせてもらいたいんですが」

 龍郎が湯巡りの木の手形を見せると、女はうなずき、「どうぞ」と、ひとこと返した。どうやら温泉はあるらしい。しかし、客商売とは思えない愛想のなさだ。

 招き入れられるままに、龍郎と青蘭は屋内へ入った。

 宿なのか、日帰り温泉なのかもわからないが、建物のなかは無人のように静かだ。ほかに客がいないらしい。女のこの無愛想さと地の利の悪さを思えば、しかたないのかもしれない。

 廊下から中庭が見えた。ガラス張りの戸の外は、竹林にかこまれた椿の庭だ。赤や白やピンクや、いろんな色の花が咲いている。揚羽(あげは)黄揚羽(きあげは)、オオムラサキのような珍しい蝶が飛びかい、天国のような風景だ。
 廊下は回廊になっている。
 家屋にかこまれた小さな極楽だ。

「やあ、きれいですねぇ」

 女は黙って頭をさげた。無口な女だ。客あしらいがひどすぎる。

 しかし、回廊から続く奥の戸口から入った温泉は素晴らしかった。黒川温泉の宿は、どこも自然と一体化した美しい景色が売りだが、ここは、とくによくできている。岩場を利用した露天風呂はほのかに白いにごり湯で、赤い椿の花が、ほとり、ほとりと浮かんでいる。

 露天風呂には、ほかに客がいない。
 龍郎と青蘭、二人きりだ。

「こちらをどうぞ」と言って、案内の女は去っていった。

 龍郎たちは女を見送って、その姿が見えなくなるのを待つ。
 そして自分たち以外、誰もいなくなると、昭和風のレトロな板場で、いきなり抱きあう。青蘭は浴衣のすそがめくれあがるほど激しい動作でとびついてきた。

「龍郎さん!」
「青蘭」

 去年の今ごろは自分に同性の恋人ができるなんて、思ってもいなかったが、これはこれで、なかなか便利だ。なぜなら、温泉で同じ男湯に入れてしまう。

 天空の隠れ里のようなこの温泉につかりながら、透きとおる白い肌の青蘭の裸身をながめていると、この世ではないどこかにいるようだ。目の前にいるのは天使なのだ——と、強く思う。

 見とれていると、とうとつに青蘭が、ふふっと笑った。白く半透明に濁った湯のなかに手を入れてくる。するっと指の感触が下腹をなぞったので、龍郎はあわてふためいた。一瞬、おぼれそうになる。ブクブクしていると、くすぐるように青蘭が笑った。

「ね? 龍郎さん。今なら、誰もいないよ?」
「青蘭……」

 二人が同性である利点を最大限に利用して、湯のなかで、くちづけをかわしていたときだ。急に風がざわついた。ぽとぽとと何かが肩や頭を叩く。けっこう痛いので目をあけた。瞬間、まわりじゅうが血の海に見えた。

「わッ!」

 おどろいたものの、よく見ると椿の花だ。赤い花が首ごと大量に落ちている。
 ちょうど散る時期なのだ。風でいっせいに落ちてきただけ。
 儚く美しいのだが、龍郎の実家はもと武家だ。先祖が一人、切腹したという。なので、椿には、あまりいい印象がない。

 ちょっと気分が萎えて、ため息をついた。おとなしく湯につかる。それでも、白濁した湯の下で、ずっと手をにぎりあっていた。指と指をからめたり、手の向きを変えたり、親指の腹で手の甲をなでたり、そんなことをしているだけで幸せな気分になる。

「いい湯だったね。あがろうか?」
「うん」

 露天風呂をあがり、板場に戻った。
 青蘭の全裸は磨かれた大理石の像のように、一分のすきもない。

 でも、この純白の裸身は、アンドロマリウスとの契約が表面上、ほぼ完遂(かんすい)している証拠でもある。青蘭がアンドロマリウスに譲り渡したという身体は、どこまでが青蘭のもので、どこからがアンドロマリウスのものなのだろう? そして、全身のすべてをアンドロマリウスに手渡してしまったとき、青蘭はどうなるのだろう?

 少し、不安がよぎる。

(これからは、なるべくアンドロマリウスの力を借りずに悪魔を退治しないとな)

 龍郎はぼんやりしていた。
 ふと我に返り、急いで浴衣を身にまとう。そのとき、ふと、姿見に目が行った。さっきまで入浴していた露天風呂が見えていた。

 しかし、見間違いだろうか?
 どうにも不条理なものが見える。
 ここは男湯ではなかったか? いや、たしかに男湯だ。案内されてきたとき、入り口が二つにわかれていた。

 では、なぜだろう。
 そこにあるはずのないものが見える。
 女がこっちに背をむけ、入湯している。肌の色つやから言って、若い女だ。

 それが非常識にも、長い黒髪を湯にひたしている。そればかりか、女は赤い着物を身につけたままだ。たぶん、緋色の長じゅばんだろう。女が着物の下につける下着のようなものである。

(なんだ……? あの女……)

 女が、ゆっくりと立ちあがった。
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登場人物紹介

 本柳龍郎《もとやなぎ たつろう》


 このシリーズの主人公。二十二歳。

 容姿は本編中では一度も明記されていないが、ふつうの黒髪、ノーマルな髪型、色白でもなく黒すぎもしない平均的な日本人の肌色、黒い瞳。身長は百八十センチ以上。足は長い。一般人にしては、かなりのイケメンと思われる。

 正義感の強い爽やか好青年。とにかく頑張る。子どもや弱者に優しい。いちおう、青蘭に雇われた助手。

 二十歳のとき祖母から貰った玉が右手のなかに入ってしまった。それが苦痛の玉と呼ばれる賢者の石の一方で、悪魔に苦痛を与え、滅する力を持つ。なので、右手で霊や悪魔にふれると浄化することができる。

 八重咲青蘭《やえざき せいら》


 龍郎を怪異の世界に呼び入れた張本人。二十歳。純白の肌に前髪長めの黒髪。黒い瞳だが光に透けて瑠璃色に見える。悪魔も虜にする絶世の美貌。

 謎めいた美青年で暗い過去を持つが、じつはその正体は……第三部『天使と悪魔』にて明かされています。

 アスモデウス、アンドロマリウスという二柱の魔王に取り憑かれており、体内に快楽の玉を宿す。快楽の玉は悪魔を惹きつけ快楽を与える。そのため、つねに悪魔を呼びよせる困った体質。龍郎の苦痛の玉と対になっていて共鳴する。二つがそろうと何かが起こるらしい。

 セオドア・フレデリック


 第二部より登場。

 青蘭の父、八重咲星流《やえざき せいる》のかつてのバディ。三十代なかば。銀髪グリーンの瞳のイケメン。職業はエクソシスト専門の神父。第五部『白と黒』にて少年期の思い出が明らかに。

 遊佐清美《ゆさ きよみ》


 第二部より登場。

 青蘭の従姉妹。年齢不詳(たぶんアラサー)。

 メガネをかけたオタク腐女子。龍郎と青蘭を妄想のオカズに。子どものころから予知夢を見るなどの一面も。第二部の『家守』で家族について詳しく語られ、おばあちゃんが何やら不吉な予言めいたことを……。

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