人魚 その二

文字数 2,700文字

 *


 喫茶店を出て、さらに道なりにグネグネすること三十分。
 谷あいの盆地に小さな漁港があった。
 防波堤にかこわれた港にボートのように小さな漁船が十数隻つながれている。近くに漁業組合だろうか? さびれた建物が一軒、ぽつりと建っていた。
 しかし、暗い。
 閑散としているというだけではない。
 どこがとは言えないが、どことなく空気が淀んでいた。

 車を漁業組合の前に停めて降りる。
 港に人影は見えなかったが、建物のなかには誰かいるだろうと思った。だが、入口はシャッターがおろされている。ほかにドアや窓はない。

「困ったなぁ。誰もいないのかな?」

 魚を入れるためのカゴらしきものや網などが、かたまって軒下に置かれているが、それは長いこと使われたようすがなかった。
 猫の子一匹、見あたらない。
 もしかして住人がいなくなった廃村だろうかと、龍郎は考える。

「あっちのほうに屋根が見える」
 青蘭が遠くを指さす。
 たしかに、瓦の屋根が木陰の向こうに見えていた。
「行ってみましょう」
 青蘭が言うので、龍郎は彼のあとを追った。

 しばらく道沿いに歩いていくと、ポツポツと数軒の家屋があった。
 古い建物であることは、ひとめでわかる。どれも築三十年以上はたっているだろう。見た感じ、無人のようだ。というより廃屋のようなふんいきだ。
 脇道に入っていくと、雑木林の奥にも、かたまって十軒ばかりの家が建っていた。

「廃村じゃないのか?」
 龍郎が言うと、青蘭はまっすぐ指をさす。そのさきをたどってみると、窓の向こうに人影があった。
「あっ、誰かいる」
「聞きこみに行ってきてください」
「えっ? おれが?」
「僕のお金でフィッシュサンド、食べたでしょ?」
「いや、だって、経費はそっち持ちだって」
「だから、初仕事」
 初仕事ならすでに車の運転をさせられていると思ったが、雇い主は青蘭だ。まだサラリーを受けとったわけではないが、いたしかたない。

「わかった。行ってくる。おまえはいっしょに来ないのか?」
「聞き込み一つ、一人でできないんですか?」
「行ってくるよ!」

 しょうがなく、龍郎は初めて探偵らしい仕事のために歩きだした。
 アスファルトの道路の両脇に雑木林があり、その林にわけ入るような土の小道が続いている。小道のつきあたりに一軒家が建っていた。人影が見えたのは、そこの二階だ。しかし、建物の手前まで近づいてみたときには、窓辺から人の姿はなくなっていた。

 とはいえ、ただ帰るわけにもいかない。幸い、古い建築にも呼び鈴はついていた。ピンポンピンポンとしつこいほどラッシュするものの、誰も出てこない。もちろん、玄関ドアには鍵がかかっていた。こういう田舎では、たまに鍵があけっぱなしのことがあるので期待したのだが、なかなか警戒心の強い村のようだ。

「ダメだった。まったく出てこないよ。高級布団のセールスか保険の勧誘だと思われたのかもしれない」

 道端で待つ青蘭に報告すると、上司は浮かない顔をした。使えない部下だと思われたのだろうかと案じたが、返ってきた答えから鑑みるに、そうではないらしい。

「あの匂いがさっきから、とても強くなったんだ。ここか、この近くで間違いない。そして、このあたりにひそんでるヤツは雑魚じゃない。かなり上位の悪魔だ。ことによると最上級の魔王クラスかもしれない」
「そうなのか?」
「雇ったばかりで悪いけど、君の命の保証をすることが難しい。もしものときに、自分が助かるチャンスがあれば、君は迷わず逃げるんだ。僕は……なんとかなるから」

 そんなことを言われても、龍郎は友人を置いて自分だけ逃げることのできる性格ではない。きっと、青蘭は龍郎を友人と思ってはいないだろうが……。

「もう少し、このへんを調べてみよう」と、青蘭に言われて、周囲を歩きまわった。
 しかし、廃屋のような陰気な家がぽつり、ぽつりと散見できるだけだ。なかには塀がくずれ、屋根が傾いて、無住らしいことがハッキリとわかる家屋もある。
「誰もいないなぁ」
「でも、さっきの家には誰かいたろ? 君がしっかり聞きこみしていれば問題なかったんだ」
「まあ、そうだけど」

 ゆるやかな坂をのぼっていた。
 カーブが海に向かって伸びている。こんな薄気味の悪い廃村でながめるには場違いなほど、うららかで美しい海の景色。

「あッ。青蘭。あそこ見ろよ。クジラがいる」

 水平線と海岸のまんなかあたりに、クジラの巨体が黒く浮きあがっていた。が、それを見た青蘭は鼻先で笑う。

「島ですよ。クジラじゃない。そもそも、あんなに大きなクジラいないんじゃないですか? 世界最大のシロナガスクジラだって、体長は三十メートルあまりですよ? あれ、ここからの感じだと、二、三十キロはあるんじゃないですか?」
「……ごめん」
「別に謝る必要はないけど。龍郎さんは子どもだなぁ」
 あっはっはっと、声高らかに笑われてしまった。

「青蘭。さき行くぞ?」
 龍郎が照れかくしにカーブをまがったときだ。坂道のさきを人が歩いていた。
「あっ、青蘭。住人だ」
「追いかけて」
「えっ? うん。わかった」

 おそらく百メートルは離れている。
 ここから走っていって追いつけるとは思わなかったが、言われるままに龍郎はかけだした。
 だが、最初の予測に反して、ぐんぐん追いつける。

(なんだろう? あの人。足が悪いのかな?)

 なんとなく、歩きかたがおかしい。
 半分ほど距離がちぢまったとき、相手がこちらをふりかえった。龍郎を見て、あわてて走りだす。

「あ、ちょっと! 待ってください。道を聞きたいだけなんです!」
 ウソをついて相手をとどまらせようとしたが、さらに焦ったふうで歩調を速める。それにしても、かなり遅い。
 数分後には、龍郎はその人の二十メートル手前にまで迫った。
 その人はどうやら、道路脇に建つ平屋建てに逃げこもうとしているようだ。

「待ってください。話がしたいだけなんです! 道に迷って——」

 平屋建てまで、ほんの数メートル。
 龍郎とその人の距離は十メートル。
 龍郎が追いつくほうが早い。
 平屋建ての引戸の目前で、龍郎はその人に手が届くところまで来た。思わず、手を伸ばして腕をつかんだ。とにかく誰からでもいい。話を聞きたい。

 が——

(あッ——!)

 龍郎はあわててつかんだ腕を離した。
 ありえないものを見たのだ。
 その人は龍郎がひるんだすきに、平屋建てのなかに入ってしまった。

(今の……)

 立ちつくしているところに、青蘭が追いついてきた。
「なんで逃がしたんですか? つかまえてたでしょ?」
「だって……」
「だって?」
「いや……」

 言えない。
 あの人の腕に、鱗が生えていた、なんて……。
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登場人物紹介

 本柳龍郎《もとやなぎ たつろう》


 このシリーズの主人公。二十二歳。

 容姿は本編中では一度も明記されていないが、ふつうの黒髪、ノーマルな髪型、色白でもなく黒すぎもしない平均的な日本人の肌色、黒い瞳。身長は百八十センチ以上。足は長い。一般人にしては、かなりのイケメンと思われる。

 正義感の強い爽やか好青年。とにかく頑張る。子どもや弱者に優しい。いちおう、青蘭に雇われた助手。

 二十歳のとき祖母から貰った玉が右手のなかに入ってしまった。それが苦痛の玉と呼ばれる賢者の石の一方で、悪魔に苦痛を与え、滅する力を持つ。なので、右手で霊や悪魔にふれると浄化することができる。

 八重咲青蘭《やえざき せいら》


 龍郎を怪異の世界に呼び入れた張本人。二十歳。純白の肌に前髪長めの黒髪。黒い瞳だが光に透けて瑠璃色に見える。悪魔も虜にする絶世の美貌。

 謎めいた美青年で暗い過去を持つが、じつはその正体は……第三部『天使と悪魔』にて明かされています。

 アスモデウス、アンドロマリウスという二柱の魔王に取り憑かれており、体内に快楽の玉を宿す。快楽の玉は悪魔を惹きつけ快楽を与える。そのため、つねに悪魔を呼びよせる困った体質。龍郎の苦痛の玉と対になっていて共鳴する。二つがそろうと何かが起こるらしい。

 セオドア・フレデリック


 第二部より登場。

 青蘭の父、八重咲星流《やえざき せいる》のかつてのバディ。三十代なかば。銀髪グリーンの瞳のイケメン。職業はエクソシスト専門の神父。第五部『白と黒』にて少年期の思い出が明らかに。

 遊佐清美《ゆさ きよみ》


 第二部より登場。

 青蘭の従姉妹。年齢不詳(たぶんアラサー)。

 メガネをかけたオタク腐女子。龍郎と青蘭を妄想のオカズに。子どものころから予知夢を見るなどの一面も。第二部の『家守』で家族について詳しく語られ、おばあちゃんが何やら不吉な予言めいたことを……。

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