百万本桜 その六

文字数 1,904文字



 そのとき、衝撃が波となって森中をゆるがした。桜の森が血で穢されたのだと、龍郎は感覚的に悟った。

 歓喜にも似た甲高い叫び声を良太が放つ。血が良太に……自分の親に捨てられ、永劫の飢餓のなかで死んだ幼い悪魔に力をあたえた。

 龍郎や良作が見ている前で、良太の小さな体が、むくむくと大きくなる。際限なく、どこまでもふくらんでいく。
 やがて天井につかえるほど大きな鬼になった。牛の頭の巨大な鬼だ。牙が奇形じみて太く長い。

「腹がへったよぉ。父ちゃん。なんか食いたいよ。なんでもいいから食いたいよぉ。草も食ったよ。土も食ったよ。虫やトカゲもつかまえて食ったよ。でも腹いっぱいにならないんだ。なんでだろう? ねえ、父ちゃん。なんでだろう? 肉が食いたいよ。一回だけ父ちゃんと母ちゃんと、みんなで町で食ったよね。すき焼き。うまかったよ。楽しかったよ。あのときみたいに、腹いっぱいになって幸せになりたいよ。腹がへると、なんでかなぁ? さみしくて、悔しくて、悲しくて、涙が止まらないんだ。ねえ、父ちゃん。なんで捨てたの? ぼくがいらなくなったの? ぼくのこと、嫌いになったの? ねえ、父ちゃん。なんで腹がへると、さみしいの? 父ちゃんがいないからかな? 父ちゃん食ったら、直るかな? 腹いっぱいになるかな? 食いたいよ。腹いっぱいになりたいよ」

 筋肉質な牛頭鬼が子どもの声で、たどたどしく語るようすはグロテスクで物悲しかった。

 ひいッと悲鳴をあげ、良作は腰をぬかす。畳の上を這いずりながら逃げようとする。牛頭がサッと腕をひとふりすると、良作は壁に叩きつけられ、「ぎゃッ」と言って血を吐いた。背骨が折れたのかもしれない。異様な形でくの字になったまま動けないようだ。
 牛頭は逃げることのできなくなった良作を片手で握りしめると、大きくあけた口のなかへほうりこんだ。バリバリガリガリと骨をかみくだく音がしばらく続いた。

 龍郎だって、ただ見ていただけではない。「やめるんだ、良太くん。お父さんを食べたって、君は幸せにならないよ。そんなことをしたら、君がもっと苦しくなるだけだ」と説得しようとした。だが、幼い良太には龍郎の言葉は理解できない。

 やがて、良作を丸ごと(かじ)ってしまうと、牛頭はゆっくりと龍郎をふりかえった。口から血のりがあふれ落ちてくる。

「……兄ちゃん、どうしよう。父ちゃん喰っても、腹いっぱいにならない」

 悲しい目をして、手を伸ばしてくる。
 でも、それは龍郎の手をにぎるためではない。龍郎を捕まえ、頭から齧るためだ。良作をそうしたように。

「もっと喰わなくちゃ。もっともっと。もっともっともっと。喰わなくちゃ。たくさん、たくさん喰わないと、腹いっぱいにならないよ!」

 この子を救うことはもうできないのだと、龍郎は理解した。
 幼い魂を侵食するには充分すぎるほどに、その飢餓は大きかったのだと。

「ごめん。良太くん」

 ほんとは、こうしたくなかった。どうにかして救いたかった。
 しかし、龍郎は覚悟を決めて手をあげた。龍郎をつかもうと伸ばしてくる良太の手と、龍郎の手がふれあう。
 その瞬間に白い光が悪魔を焼いた。
 咆哮が天地に轟く。
 光が消えたとき、悪魔はいなくなっていた。
 龍郎は荒れはてた寺院のなかで、一人立ちつくしていた。



 *

 寺から出ると、桜が消えていた。
 車道のガードレールのところで、青蘭が男ともみあっているのが見えた。男が青蘭を崖下へつき落とそうとしているようだ。

 龍郎は走った。
 十分はかかる山道を五分で走破した。

「青蘭!」

 近づくと、男が落下させようとしているわけではないことがわかった。青蘭を押し倒して乱暴しようとしている。

「気どるなよ! あいつとやってるんだろ? おれにもさせろよ。一回くらい」

 身勝手なことを言って迫る瑛斗に、青蘭が全身の力で抵抗している。

「やめろッ!」
 龍郎はかけよって、瑛斗をタックルでつきとばす。
 瑛斗はアスファルトの上にぶざまに倒れた。

「青蘭。無事か?」
 助け起こすと、青蘭はしがみついてくる。抵抗してくれたことが嬉しかった。龍郎とは寝ない宣言をした青蘭だが、誰でもいいわけではないのだとわかって。

「おれがいないあいだに何があったんだ? さっき、森で血が流れただろう?」
「僕をとりあって、あいつらが殺しあったんだ。男が女をここから、つき落とした」

 瑛斗は絶望したような顔をしていたが、急に「わあッ」と叫ぶと、そのままガードレールを飛びこえていった。
 彼らもあの空間の邪気に心を蝕まれてしまったのかもしれない。

 見ると、道脇にとても小さな地蔵が安置されていた。地蔵はおだやかな顔で笑っている。



 了
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登場人物紹介

 本柳龍郎《もとやなぎ たつろう》


 このシリーズの主人公。二十二歳。

 容姿は本編中では一度も明記されていないが、ふつうの黒髪、ノーマルな髪型、色白でもなく黒すぎもしない平均的な日本人の肌色、黒い瞳。身長は百八十センチ以上。足は長い。一般人にしては、かなりのイケメンと思われる。

 正義感の強い爽やか好青年。とにかく頑張る。子どもや弱者に優しい。いちおう、青蘭に雇われた助手。

 二十歳のとき祖母から貰った玉が右手のなかに入ってしまった。それが苦痛の玉と呼ばれる賢者の石の一方で、悪魔に苦痛を与え、滅する力を持つ。なので、右手で霊や悪魔にふれると浄化することができる。

 八重咲青蘭《やえざき せいら》


 龍郎を怪異の世界に呼び入れた張本人。二十歳。純白の肌に前髪長めの黒髪。黒い瞳だが光に透けて瑠璃色に見える。悪魔も虜にする絶世の美貌。

 謎めいた美青年で暗い過去を持つが、じつはその正体は……第三部『天使と悪魔』にて明かされています。

 アスモデウス、アンドロマリウスという二柱の魔王に取り憑かれており、体内に快楽の玉を宿す。快楽の玉は悪魔を惹きつけ快楽を与える。そのため、つねに悪魔を呼びよせる困った体質。龍郎の苦痛の玉と対になっていて共鳴する。二つがそろうと何かが起こるらしい。

 セオドア・フレデリック


 第二部より登場。

 青蘭の父、八重咲星流《やえざき せいる》のかつてのバディ。三十代なかば。銀髪グリーンの瞳のイケメン。職業はエクソシスト専門の神父。第五部『白と黒』にて少年期の思い出が明らかに。

 遊佐清美《ゆさ きよみ》


 第二部より登場。

 青蘭の従姉妹。年齢不詳(たぶんアラサー)。

 メガネをかけたオタク腐女子。龍郎と青蘭を妄想のオカズに。子どものころから予知夢を見るなどの一面も。第二部の『家守』で家族について詳しく語られ、おばあちゃんが何やら不吉な予言めいたことを……。

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