サンダリン その二
文字数 2,189文字
実験室を出たサンダリンは、塔の屋上をめざした。魔法媒体は壊されてしまったが、まだ、あの場所に星の戦士がいるかもしれない。
ゆるいスロープをのぼっていくあいだ、足元がもつれた。意識を保っているのが難しい。扉にもたれて、少しのあいだ気を失っていたようだ。
目がさめたのは、コトリと、かすかな音が室内から聞こえたからだ。音はサンダリンがもたれている扉のなかから届いた。
(ここは……無人だったはず?)
そもそも、賢者の塔には、少数の研究者たちしかいない。労働天使のなかのごく一部の優れた者が、賢者として余生を認められる。ほんの数人だ。知性の高い天使なんて、そうそういない。
誰かが、ひそんでいる。
サンダリンはそっと、ドアのセンサーに手をあてた。上級天使として登録されているサンダリンの生体認証なら、どの塔のどの部屋へも自由に入っていける。
扉をあけると、室内に人間が隠れていた。邪眼に、くっきりとその姿が映しだされる。
ママほどはないが、純白の肌は透きとおるように艶めかしい。そして驚いたことに、まったく異なる姿形をした他次元の異種族なのに、目がくらむほどに美しい。
おそらく、見目ではないのだ。なんだかわからないが、恐ろしく
「……そうか。きさまか。快楽の玉の持ちぬしだな? ルリムがさらってきたあと、幽閉の塔から逃げだした。こんなところに隠れていたのか」
これが快楽の玉の力なのか。
男ではなくなったサンダリンでさえ、むしょうにムズムズする。白い喉に牙をたてて、食いちらかしてやりたいような妙な気分になった。
サンダリンが自制できたのは、性機能が停止しているからだったろう。そうでなければ、今ここで無我夢中でしがみつき、押し倒していたところだ。
「……来い。おまえを女王陛下に献上する。さきほどの失態も許されるだろう」
獲物は床に座りこんだまま動かない。
おびえているのだろうと思った。
だが、近づいてそのおもてを覗きこんだときに気づいた。おびえているのではない。観察しているのだと。
彼は悪魔と対峙することに慣れている。抵抗すべきか、交戦すべきか、あるいはいったん従い、あらためて機をうかがうべきか、熟考している。
急に不愉快になった。
ただの人間のくせに、悪魔と対等にやりあえると思っているらしい。
「来い」
サンダリンが腕をつかむと、あきらめたようすで立ちあがった。わめきもせずに、おとなしくついてくる。
だが、扉の前でささやいてきた。
「ねえ、ほんとに僕を女王のところへつれていく気なの? それでいいの?」
「何?」
「悪魔はみんな、僕を欲しがる。おまえは欲しくないの?」
「何を言っている?」
とつぜん、抱きついてきた。
両腕をサンダリンの首にからめ、唇をかさねてくる。それが何を意味するのか、サンダリンにはわからなかった。しかし、むやみと甘い。
このままずっと離れたくない。白い肌に爪を立て、むさぼり食いたい。きっと、彼の肉はたまらなく美味だろう。
あのムズムズが急激に強まる。
同時に、傷ついた翼のつけねが痛んだ。ドクリ、ドクリと脈打つたびに、そこから何かが噴きだしそうになる。
血だろうか?
傷がふさがっていないからか?
いや、違う。痛むのは失った側の翼ではない。反対のほう。健全な翼が焼けるように熱い。
「やっぱり、おまえも僕が欲しいんだな」
耳元に吹きこまれる声音が、翼の痛みをいや増しにした。
ドク、ドク、ドクン——
苦痛が
痛い。だが、気持ちいい。
その瞬間に、
それ
が弾けた。サンダリンは失神した。
気がついたとき、快楽の玉の持ちぬしはいなくなっていた。扉があけっぱなしになっている。逃げだしたらしい。
つまり、色仕掛けというやつだ。これまで経験のないことだったので、いいように騙されてしまった。
サンダリンは歯噛みして、立ちあがろうとした。ものすごい
サンダリンは自分の目を疑った。
そして、悲鳴をあげた。
戦闘天使の強靭な力を生みだす翼が、そこに落ちていた。自分の背中から抜けおちたのだとわかった。残されていた、ただ一つの翼が。
(なんてことだ。私は……失ってしまった。戦闘力を……)
呆然としていると、背後で声がした。
「嘆くことはないんじゃない? あなたは男になったのよ」
ふりかえると、王女が立っていた。門番の王女だ。女王に忠誠を誓うことを延期したかわりに、労働に従事することで生存の許可を得ている。
「男……私が?」
そういえば、戦闘力の大半を失ったものの、これまでとは違う力を体内に感じる。見おろしてみると、体格も少し変化したようだ。
「羽がなくなったから、王子に戻ったわけか」
サンダリンの胸にひとすじの希望の光が差した。
男になれば、女王のサンダリンを見る目も、以前のそれに戻るかもしれないと。
すると、ルリムが言った。
「わたしと手を組まない?」と。
「手を組む?」
「そう。あなた、王になりたくはない? わたしが女王になれば、あなたを王にする。あなたは王に、わたしは女王に。悪くないと思わない?」
それは、今の女王である母を殺して——ということであろうか?
サンダリンは黙考した。
了