瑠璃夢 その一
文字数 2,043文字
龍郎が目をあけると、そこは氏家の客間だった。現実世界に戻ってきたのだ。
(青蘭……)
必ずいっしょに帰ろうと言ったのに、あの世界に青蘭を置いてきてしまった。
どうしても、こうなってしまう。女王を倒すまでは、ずっと、こうなのだ。そう思うと気分が沈んだ。
(でも……進展がなかったわけじゃない。いや、むしろ、かなり善処したほうだ。賢者の塔の魔法媒体を破壊した。昨日の夢では青蘭も死ななかった。あと二つの塔で媒体を壊せば、女王を守る魔法が消える)
事態はそうとう好転したと言える。これまでは、まったく希望らしいものがなかったのだから。
疲れはてていたので、龍郎はそのまま眠った。空腹でふたたび目覚めたのは、午後も遅くなってからだった。夕刻前の西日が、さんぜんと室内に差しこんでいた。
この時刻まで、誰も起こしに来なかったのか。まあ、しかたない。龍郎が自宅に帰っていると思ったのかもしれない。
龍郎はベッドをおりて、扉をひらいた。
家内に住人の姿は見あたらない。
それぞれの部屋でくつろいでいるのだろうか?
瑠璃に会いたい。
瑠璃はほんとの青蘭ではないが、青蘭の残像ではある。
昨夜、四の世界から、じかに五の世界へ旅立ったが、現実世界では新たな異変が起こっていないだろうかと、龍郎は案じた。
しかし、それにしても静かだ。
無人の廃墟のようだ。
龍郎は二階の瑠璃の部屋に行ってみたが、姿がない。化粧台の上に、小さなスタンドが置かれているのが目に入った。兄妹の写真が飾ってある。男の子のほうは、まちがいなく、龍郎の知っている冬真だ。ということは、となりで笑っている少女が、瑠璃なのだろう。女の子の顔をなにげなく見て、龍郎はハッとした。
(この子、知ってる!)
そこに写っていたのは、青蘭ではなかった。
五歳の青蘭。十五歳の青蘭。どちらも魔法の結界内で見たことがあるが、またたく星の青いきらめきのように、幻想的で神秘的な美貌だった。まとっている気配が人間というよりは、この世のものではない何かだ。
でも、この写真の少女は、顔立ちは可愛いけれど人間だ。あまりにも澄んだ空気に包まれていて、どこか恐ろしいなんて印象はまったくない。
(そうだ。小学校の校庭で冬真やクラスのみんなと遊んでるとき、遠くの木陰で見てた子だ。いつも一人で、友達もなさそうで、さみしそうだった)
だから、一回だけ声をかけたことがある。「いっしょに遊ぼうよ」と。
でも、少女はあわてて逃げだしてしまった。
あれが、冬真の妹だったのか。
(瑠璃さんが、おれのこと好きだったとか、冬真は言ってたけど……)
たぶん、子ども時代のあわい初恋だったのだろう。大人になれば、消えてしまうほどの、あわい想い。でも、それだけに純粋な想い。
(……忘れてしまってて、ごめん)
いっしょに遊んだこともない。
話したことも。
あれから十年も経った。
でも、龍郎は彼女のことを忘れてはいけなかったような気がする。
屋敷のなかを探したが、瑠璃を見つけることはできなかった。
龍郎は空腹に耐えかねて、いったん自宅へ帰った。
今日も清美が縁側でひなたぼっこをしている。龍郎を見て、微笑した。
「今日はホットケーキとお好み焼きと、どっちがいいか悩んだんですけどね。甘いのばっかりも飽きるかなぁと思って、お好み焼きを用意してますよ。すぐ焼けるから、ちょっとだけ待ってくださいね」
「ありがとう」
龍郎の目の前で焼いてくれたお好み焼きに、ソースとマヨネーズをたっぷりかけて、熱々のところをペロリとたいらげた。
「はい。煎茶です。今日は大変な夜になるので、しっかり腹ごしらえしてください。おにぎりも食べます?」
「えッ? 大変になるって?」
「次は六の世界ですよね?」
「うん。そうだけど」
「六の世界は激闘になりますから」
「……そうなのか」
五の世界だって、なかなかの激闘だったと思うのだが、そう言われれば、まだ、まともに女王と戦ったことがない。女王を守る魔法と天使に、これほど手こずっているのだ。
「わかった。心して行ってくる」
「はい。お二人のお帰りをお待ちしてますね」
清美に手をふって、氏家の屋敷に向かったころには、すっかり日が暮れていた。門の前に立ったとき、昼間とは違う気配を感じた。
門のすきまから、ねっとりとした闇が這いだしてくるような感覚だ。邪悪なものが、内からあふれている。
まだ夕方だというのに、氏家の敷地のなかだけ、時間から切り離されたように真っ暗だ。
鉄柵の門を一歩くぐると、冷んやりとした空気が自然に背筋を凍らせる。
一家が全員、仮死状態になったり、殺されたはずなのに何度も生きかえったり、それだけでも異常だが、今日の気配はそれ以上に硬質だ。やけに緊迫している。
そのとき、屋敷のなかから悲鳴がわきあがった。
間髪入れず、パン、パンと銃声が響く。
始まった。
今日はいやに早い。
毎夜の殺戮の幕があがったのだ。
(瑠璃——!)
龍郎は走った。
瑠璃を……青蘭を助けるために。