ラビリンス その十六

文字数 2,151文字



「僕は……イヤだ……」

 青蘭はあとずさり、龍郎の背中に顔を隠す。
 龍郎は右手をあげて、かまえた。
 青蘭はあの男に言い知れぬ恐怖を植えつけられている。青蘭には、アイツを倒すことはできないだろう。ここは自分がやるしかない。

 だが、龍郎が一歩、前にふみだすと、背中でかすれた声が聞こえる。

「龍郎さん。僕にやらせて」
「青蘭、でも……」

 龍郎の背に押しあてられた青蘭の手は、ふるえている。だが、それを抑えるように、青蘭はギュッとこぶしをにぎりしめた。龍郎は背中で、その動きを感じた。

「僕がやる。これは僕の獲物だ」

 青蘭の手が背中から離れる。
 前に進みだす青蘭の目を見ると、真紅に燃えていた。

「アンドロマリウス。命令だ。あの山羊を倒せ」
「次はどこをくれるんだ?」
「心臓を半分」
「悪くないね」

 瞬間、青蘭の体から炎が噴きだした。燃えさかる火炎は、青蘭の怒りの色だと、龍郎にはわかった。
 子どもだった自分を弄んだ悪魔に対する怒り。抵抗できない理不尽の数々に対しての、やり場のない憤怒。

 山羊の悪魔はその炎に魅入られるようにながめている。悪魔にとって、それは抗うことのできない魅惑なのだろう。

 いつものように、青蘭は悪魔をアンドロマリウスの魔力で粉々にくだくのだと思っていた。だが、青蘭は山羊の悪魔とむきあうと、その体をそっと抱きしめた。

 炎の色が少し変わった。
 怒りの底にある、青蘭の悲しみを映すかのように。

 山羊の悪魔は業火に焼かれ、歓喜ともとれるような咆哮をあげながら消えた。燃えつきて崩れた灰は光の粒となり、青蘭の口に吸われていった。

「これで、終わり……僕は生まれ変わる」

 つぶやきながら、青蘭はふりかえる。龍郎と目があうと、ほのかに瞳がうるんだ。青蘭はようやく、幼いころの悪夢から逃れたのだ。過去の自分と決別し、新しい自分へと前進する。その瞬間を、龍郎はまざまざと網膜(もうまく)に刻みつけた。

「よくやったね。青蘭」

 両手をひろげると、青蘭は龍郎の腕のなかにとびこんできた。押さえきれないように、その瞳から涙があふれてくる。

 この人を守る。
 でも、この人はそれほど弱くない。
 強く輝く、まぶしい魂の持ちぬしだと、龍郎はあらためて実感した。



 *

 ぐらりとゆらぐような感覚のあと、まわりの景色が変わった。薄暗い診療所から、青蘭が子どものころに暮らしていた屋敷の内部に変化している。

 龍郎は青蘭や冨樫とともに、そこに立っていた。

「僕の記憶のなかに戻ってきたんだね」
「まだ魔法の結界から出たわけじゃないんだな」

 こげくさい匂いがしていた。
 すでに火の手があがっている。
 悲鳴があっちからも、こっちからも聞こえてくる。

 青蘭は廊下に立ちつくし、渦巻く炎に飲まれていく屋敷をながめている。
 つらいのだろうかと、龍郎は案じた。

「青蘭」

 声をかけると、青蘭は微笑した。

「大丈夫。これは過去の記憶。もう、すぎたこと」

 走りだすと、すぐに、そこがどのあたりなのかわかった。青蘭の子ども部屋の近くだ。ドアがあけっぱなしになっている。無数のぬいぐるみをならべた星の壁紙の一室。そのなかに、青蘭が……五歳の青蘭がすわっている。ベッドの上で、ユニコーンを抱きしめていた。

「ここから外に出られるよ」

 そう言って、小さな青蘭は窓を指さした。ゆるいアーチを描いた、両扉のアンティークな窓。誘うような白い光がさしこんでいる。

 廊下には、巨大な生き物の舌のように屋敷をなめるオレンジ色の炎が、すぐそこまで迫っていた。

 龍郎は五歳の青蘭を見つめた。
「いっしょに行こう?」

 だが、青蘭は首をふる。
 幼いおもてに、純真無垢な笑みを浮かべる。

「大丈夫。僕はもう、その人のなかにいるよ。いつでも会えるから」と言って、二十歳の青蘭を示す。
「ぼくらは、ほんとは一つだから」
「そう。そうだね」
「また、いっしょに遊ぼう?」
「うん。約束だ」

 少年の青蘭が微笑みながら手をふる。
 窓をあけると、光のなかに吸いこまれるような力が作用した。
 結界が壊れる。
 魔術が解かれるのだ。

 龍郎は最後にもう一度、屋敷のなかをふりかえった。
 手前の子ども部屋で笑う五歳の青蘭。
 その奥の炎と闇の交錯する迷宮を。

 迷宮の奥底で、誰かが歌っていた。
 澄んだ、美しい声。
 悲しいような、切ないような、でも、どこか甘いようなメロディーを、泣きむせぶように歌っている。
 心の一部をちぎられるような歌声だ。

 一瞬、迷宮の最奥をさまよう人影が見えた。千里より彼方に離れているのに、その人の瞳が龍郎を見つめていることがわかった。

 なぜか、とても懐かしい……。



 *

 朝だ。爽やかな光が世界を照らしている。
 気がつくと、龍郎たちは焼け跡に倒れていた。たぶん、かつて子ども部屋のあったあたりの窓の外だ。
 きっと、青蘭が過去をすて、未来にむかって生きることを決意したから、封印が解けたのだろう。

 龍郎は瓦礫の埋まる地面によこたわる青蘭をかかえ起こした。
 青蘭の長いまつげが数度まばたき、瑠璃色の瞳が龍郎を見あげる。微笑のなかに、たしかな愛情を感じた。二人の心が、バターのようにとろけていくのを。

「青蘭」

 龍郎は魔法の言葉をささやいた。
 これから、いったい何万回、この言葉を発するのだろうと思いながら。

 好きだよ——と。



 了
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登場人物紹介

 本柳龍郎《もとやなぎ たつろう》


 このシリーズの主人公。二十二歳。

 容姿は本編中では一度も明記されていないが、ふつうの黒髪、ノーマルな髪型、色白でもなく黒すぎもしない平均的な日本人の肌色、黒い瞳。身長は百八十センチ以上。足は長い。一般人にしては、かなりのイケメンと思われる。

 正義感の強い爽やか好青年。とにかく頑張る。子どもや弱者に優しい。いちおう、青蘭に雇われた助手。

 二十歳のとき祖母から貰った玉が右手のなかに入ってしまった。それが苦痛の玉と呼ばれる賢者の石の一方で、悪魔に苦痛を与え、滅する力を持つ。なので、右手で霊や悪魔にふれると浄化することができる。

 八重咲青蘭《やえざき せいら》


 龍郎を怪異の世界に呼び入れた張本人。二十歳。純白の肌に前髪長めの黒髪。黒い瞳だが光に透けて瑠璃色に見える。悪魔も虜にする絶世の美貌。

 謎めいた美青年で暗い過去を持つが、じつはその正体は……第三部『天使と悪魔』にて明かされています。

 アスモデウス、アンドロマリウスという二柱の魔王に取り憑かれており、体内に快楽の玉を宿す。快楽の玉は悪魔を惹きつけ快楽を与える。そのため、つねに悪魔を呼びよせる困った体質。龍郎の苦痛の玉と対になっていて共鳴する。二つがそろうと何かが起こるらしい。

 セオドア・フレデリック


 第二部より登場。

 青蘭の父、八重咲星流《やえざき せいる》のかつてのバディ。三十代なかば。銀髪グリーンの瞳のイケメン。職業はエクソシスト専門の神父。第五部『白と黒』にて少年期の思い出が明らかに。

 遊佐清美《ゆさ きよみ》


 第二部より登場。

 青蘭の従姉妹。年齢不詳(たぶんアラサー)。

 メガネをかけたオタク腐女子。龍郎と青蘭を妄想のオカズに。子どものころから予知夢を見るなどの一面も。第二部の『家守』で家族について詳しく語られ、おばあちゃんが何やら不吉な予言めいたことを……。

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