スーツケースの男 その三

文字数 2,190文字


 龍郎は歯の根があわない。カチカチと歯と歯がふれあって、変な音を出す。すると、ゲームをしていた中学生が、龍郎のようすを見て、クスクス笑いだした。

「なに、あの人。ヤバくね?」
「クスリやってんのかもよ」
「わあ、怖いじゃん」

 何を言ってんだ、おまえら!
 あれが見えないのか?
 怖いのはおれじゃなくて、アイツだろ?

 そう叫びたい衝動にかられた。
 しかし、舌の根がふくらんでこわばり、声も出ない。

 シュッとスーツケースから、赤い舌が伸びた。
 今度は中学生をひきずりこむ。
 ゴロンと床にスマホが落ちた。
 相棒が消えた中学生は首をかしげながら、友達のスマホをひろった。

「竹内? どこ行った? おーい、竹内?」

 キョロキョロしながら龍郎の前をよこぎり、あろうことか、スーツケースの男のほうへ近づいていく。
 少年は友人が別の車両に走っていったとでも思ったのか、連結部へ向かっている。

 スーツケースの前を通りすぎる瞬間、ペロンと舌が伸びた。虫を捕まえるカメレオンの舌のように、中学生をとらえ、一瞬でスキマの内へ消える。

(もうダメだ。ガマンできない。叫ぶぞ。もう叫ぶぞ)

 うっ、うっ、うっ——とうめいていると、目の前に誰かが立った。
 あの美女だ。すっと、白い手で龍郎の口をふさぐ。

「まさか、見えているのか?」

 見えてるかだって? 逆にアレが見えないなんて、どうかしてないか?——と、龍郎は言いたいのだが、美女の手にふさがれて話すことができない。

「いいだろう。おまえは救ってやる。来い」

 口をふさぐ手を離すと、今度は二の腕をつかんで、美女は龍郎を座席から立たせた。

 しかし、こんなときにアレだが、美女の声は魅惑的なアルトだ。女性にしては、あまりにも低い。最初、どこからその声が聞こえているのかわからなくて戸惑った。

「救う? いったい、アレは……」
「しッ」

 美女は人差し指を薔薇の花弁のような赤い唇に押しあてて、ひきずるようにして龍郎を歩かせる。
 スーツケースの男から離れたドア前までつれられていった。

 スーツケースの男は顔をうつむけたままだが、上目遣いにこっちをながめていた。その目つきが背筋がゾクッとするほど陰湿で、どこか無念そうだ。

 まもなく、電車は次の駅に近づき、運行スピードを落としていった。

 背後で「ギャッ」と声があがり、見ると、買い物袋をさげた女がスーツケースのスキマに飲みこまれていくところだった。

 急ぎすぎたのか、スーツケースの閉じるのが少しだけ早く、おばさんの大根のような足が、ブツンとちぎれて床にころがる。血がいちめんをぬらした。

 車内アナウンスが次の駅名を告げる。

 駅だ。駅につけば、ここから逃げだせる。
 ほかの人たちは誰も立ちあがる気配がないが、自分は助かるのだ。アイツに食べられなくてすむ。生きて、これまでどおり暮らしていける。

 そう考えると、その場にヘタリこみそうなほど力がぬけていく。

 だが、そのとき、龍郎は見てしまった。
 幼稚園の制服を着た女の子が、トコトコと歩きだすのを。
 スーツケースの男のほうへ近づいていく。

(やめろ。そっちに行くな)

 大人や高校生が犠牲になるのは、かろうじて見ないふりができた。だが、幼な子が喰われるところを見すごすことは、龍郎にはできなかった。あまりにも胸が痛む。

 思わず、女の子の胴体をつかんで抱きあげていた。
 子どもがビックリして泣きだす。母親が悲鳴をあげた。

「あなた、何するんですか! うちの子をどうするつもりッ?」

 龍郎は目の端でスーツケースの男がこっちにむかってくるのを視認していた。怒っている。男がスーツケースの口をひらくと、赤い舌がこっちに伸びてくる。

「バカ! 子どもなんか、ほうりだせ!」と、美女が声を荒げた。

「そんなことできない」
「自分が喰われたいのか?」
「でも——」

 目の前に舌が迫る。巨大な猛獣が真っ赤な口をあけて、龍郎を飲みこもうとしているようだ。

 ダメだ。喰われる。ここで死ぬんだ。なんで、おれは、こんなわけのわからない死にかたを……。

 あきらめの境地でソレを見つめていたとき、電車がホームに停車した。ドアがひらく。

 美女が思いきり、龍郎をつきとばした。美女と龍郎と女の子と、女の子をとりもどそうとする母親は、もみくちゃになってホームに倒れる。

 ドアの前にならんでいた人たちが迷惑そうに龍郎たちを見た。
 両側によけながら、車内へ入っていく。
 その人の波に押されるように、スーツケースの男は、もとの座席へ帰っていった。

 やがて、ドアが閉まり、電車は走りだす。
 ゆっくりと動きだす電車の窓ごしに、男は龍郎たちをながめていた。のがした獲物をさも惜しむような顔で。

「た……助かった、のか?」
「あれはより多くの獲物を求める。追ってはこない」

 龍郎は泣きわめく子どもを母親の手にもどした。
 母親は何やら、しきりと文句を言っていたが、龍郎の耳には入っていなかった。

「あれは、なんだったんだ?」

 起きあがりながらたずねると、同じく立ちあがり、服のほこりを両手ではらっていた美女が、つまらなさそうに言った。

「あれは“貪食”だ。ただの小物だよ。僕が退治するまでもない」
「どん……えーと……退治って?」

 しかし、それきり答えず、美女は歩きだす。

「あの、待って。君はいったい誰なんだ? 何が起こったんだ?」

 美女は片手をあげて、立ち去った。



 了
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登場人物紹介

 本柳龍郎《もとやなぎ たつろう》


 このシリーズの主人公。二十二歳。

 容姿は本編中では一度も明記されていないが、ふつうの黒髪、ノーマルな髪型、色白でもなく黒すぎもしない平均的な日本人の肌色、黒い瞳。身長は百八十センチ以上。足は長い。一般人にしては、かなりのイケメンと思われる。

 正義感の強い爽やか好青年。とにかく頑張る。子どもや弱者に優しい。いちおう、青蘭に雇われた助手。

 二十歳のとき祖母から貰った玉が右手のなかに入ってしまった。それが苦痛の玉と呼ばれる賢者の石の一方で、悪魔に苦痛を与え、滅する力を持つ。なので、右手で霊や悪魔にふれると浄化することができる。

 八重咲青蘭《やえざき せいら》


 龍郎を怪異の世界に呼び入れた張本人。二十歳。純白の肌に前髪長めの黒髪。黒い瞳だが光に透けて瑠璃色に見える。悪魔も虜にする絶世の美貌。

 謎めいた美青年で暗い過去を持つが、じつはその正体は……第三部『天使と悪魔』にて明かされています。

 アスモデウス、アンドロマリウスという二柱の魔王に取り憑かれており、体内に快楽の玉を宿す。快楽の玉は悪魔を惹きつけ快楽を与える。そのため、つねに悪魔を呼びよせる困った体質。龍郎の苦痛の玉と対になっていて共鳴する。二つがそろうと何かが起こるらしい。

 セオドア・フレデリック


 第二部より登場。

 青蘭の父、八重咲星流《やえざき せいる》のかつてのバディ。三十代なかば。銀髪グリーンの瞳のイケメン。職業はエクソシスト専門の神父。第五部『白と黒』にて少年期の思い出が明らかに。

 遊佐清美《ゆさ きよみ》


 第二部より登場。

 青蘭の従姉妹。年齢不詳(たぶんアラサー)。

 メガネをかけたオタク腐女子。龍郎と青蘭を妄想のオカズに。子どものころから予知夢を見るなどの一面も。第二部の『家守』で家族について詳しく語られ、おばあちゃんが何やら不吉な予言めいたことを……。

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