君の声を聞かせて その四
文字数 2,483文字
翌朝。
早くに起きて、龍郎と青蘭は車で鍋ヶ滝へむかった。温泉街から五キロほど。CMにも起用されたという周辺の絶景ポイントの一つだ。滝幅二十メートル。落差十二メートル。
宿で朝食をとったあと、すぐに出発したので、駐車場についたのは九時前だ。
「あれ? なんか、まだ開園してないっぽいな。ちょっと見てくるよ」
龍郎は青蘭を車内に残し、一人で料金所まで歩いていった。思ったとおり、まだ開いていない。でも、建物のなかに人がいた。
「何時からですか?」
「九時からだよ」
「ああ。じゃあ、もう五分ほどだ。つれをつれてきます」
駐車場まで往復しているうちに、五分くらいは経つだろう。
自動車まで戻っていったときだ。青蘭は窓に頭をよせて、うたたねしていた。昨日、あれほど寝たくせに、まだ寝るのか。ちょっと理不尽な気がすると、青蘭の寝顔を見守りながら、なかなか寝られなかった龍郎は思う。
「おーい、青蘭——」
起きろよ、行くぞと声をかけようとした龍郎は、一瞬、目を疑った。青蘭の肩の上に何か変なものが乗っかっている。ハツカネズミくらいの小さな生き物だ。何やらグニグニして、異様な形態の胴体に太い四本足がついている。後足で二足立ちし、頭部のようなものは見あたらなかった。
あわてて走っていくと、すでにその奇妙な生物はいない。
目の錯覚だったのだろうか?
龍郎は助手席のドアをあけ、青蘭を起こした。
「ちょうど開くよ。行こう」
「うん」
駐車場には他にも何組か観光客がいたが、それほど混んではいない。人影はまばらだ。入口のクマモンっぽい人形はご愛嬌だが、空気は清々しい。
料金を払って、公園のなかへ入っていった。前の人たちとあいだが離れるように、わざとゆっくり歩く。平日だし、今は花見時分なので、つねより観光客が少ないのかもしれない。
整備された道すじを歩いていくと、やわらかに萌える新芽の緑が目にまぶしい。どこからか鳥の鳴き声がした。
「気持ちいいなぁ。来てよかったな?」
「うん」
青蘭はチラチラと龍郎をうかがっている。何やら思うところがあるようだ。
「何?」
「……なんで、なんにもしなかったのかなって」
「えっ?」
「昨日の夜」
「何言ってんだ。さきに寝てしまったの、青蘭だろ?」
「そうだった?」
「そうだよ。おれがそのあと、どんだけ我慢したと……」
青蘭は瞳をキラキラさせて、龍郎によりそってくる。胸と胸がぶつかって、鼓動がかさなる。
「な、な、な……何してるの? 青蘭」
「ここでやっちゃう?」
「何、な、なに言ってんだ。それはマズイよ。人が来るだろ」
「じゃあ、車のなか」
どう返していいかわからない。いっそ抱きしめてしまおうかと考えていたときだ。何かが耳元を跳びはねていった。するどい痛みが走る。
「イテッ。なんだ。今の?」
蝉かカブトムシみたいなものだったのだろうか? 耳たぶに手をあてると指さきに血がついた。
青蘭がハンカチを胸ポケットから出して、龍郎の耳に押しあてた。
「なんか、邪魔されてるみたい」
「おまえが朝っぱらから変なこと言うからだよ。妬いたんだ」
「何が?」
「なんだろう? 虫みたいだったなぁ」
龍郎は決心した。
この公園にいるうちに、青蘭に本心を聞こうと。龍郎とつながることは、イヤではないらしい。でも、それが愛から来ているのか、そうではないのか、それが知りたい。
道すじが木造の階段につながっていた。ここから滝のある場所へあがっていくようだ。しだいに水音が激しくなる。
どのタイミングで言おう。
やっぱり滝か?
青蘭はなんて答えるだろうか?
僕も好きだよと?
それとも、言ってる意味がわからない、とでも?
青蘭なら、どんな答えが返ってきても不思議はない。
深い自然の息吹を感じながら、龍郎は青蘭のよこがおを流し見る。
やがて、階段をのぼりきると、美しい滝の全景が広がった。木々の葉を透かし、萌黄色にふりそそぐ陽光。ほのかに青みを帯びた両翼の滝。精霊の集う場所だ。
いやが上にも気分が高まる。
今だ。今しかない。
今、言おう。
龍郎が口をひらこうとしたとき、青蘭が言った。
「あっ、ここから滝の裏に入っていくんだね。すべりそう。革靴で来るんじゃなかった」
「あっ……うん、手、つなごう」
「うん」
残念。タイミングを逃した。
滝のまわりには何人か写真を撮っている観光客がいた。先着の人たちだ。
その人たちがいなくなるまで、気長に滝をながめていた。
やがて、あたりに人がいなくなる。
大自然、貸切だ。
「じゃあ、行こう」
鍋ヶ滝は表側から見ても、もちろん、ひじょうに美しい。水量もあるし、横幅があるので、パノラマ的で迫力がある。
しかし、一番の売りは、なんと言っても裏見の滝だ。つまり、滝の裏側にまわり、そこから外をながめることができるのである。
河原の石をふんで、滝の裏に入っていく。暗い岩肌のホール。待った甲斐があり、無人だ。
「龍郎さん。滝、見た?」
「まだ」
「一、二、三でふりかえろうよ」
「そうだね」
一、二、三と数えて、同時にかえりみる。暗いホールにきらめく光の滝がふりそそぎ、妖精の羽のように、むこうがわの景色を透かしている。
暗闇のなかから眺める光は、ときにまぶしすぎる。でも、今、水晶のようなベール越しに見る滝からの景観は、やわらかく包みこむような優しい光に満ちていた。
心が洗われる。
たったいま、この場所に二人で立っていることが、奇跡のように思える。
龍郎は青蘭の手を、両手でにぎりしめた。
「青蘭。君を愛してる」
「うん」
「一生、この気持ちは変わらない。もしも、おれが裏切ったら、君に殺されても後悔しない」
「うん」
「おれの恋人になってください」
青蘭は満面の笑みを浮かべた。それが答えだ。
「僕も……龍郎さんが、好き」
抱きしめると、すっぽりと腕のなかにおさまる。こんなにも幸せでいいのだろうか? 愛しさで目がくらみそうだ。
この光にあふれる天国のような景色のなかで、永遠に時が止まってしまえばいい。
でも、それは叶わぬ願いだった。
とつぜん、足元に激痛が走った。同時に変な声が聞こえてきた。