魔女のみる夢 その十(挿絵)

文字数 2,165文字

 酒を飲みすぎてしまった。
 足元がおぼつかないほどではないが、悪酔いしていることは、龍郎自身にも自覚できた。
「酒癖の悪い助手なんて、めんどう見きれないなぁ」と文句を言う青蘭に支えられて、龍郎はバーをあとにした。

 そのあとのことは悪い夢だったようにしか思えない。

 廊下に出たとたん、青蘭の顔つきが変わった。厳しくなり、しきりとあたりを見まわす。

「どうかした?」
 龍郎がたずねると、しッと人差し指を朱唇にあてる。
「来る」
「えっ?」
「悪魔の匂いだ」

 時刻はいつのまにか零時をまわっていた。そのせいか、廊下は照明が落とされ、薄暗い。病人の枕元に置かれた吸い口のなかみのように、茶色く濁った光が弱々しく周囲を闇から切り離している。なんだか空気まで汚れて見えた。

 また来てしまった。“向こうの世界”に。現実と非現実のはざま。そのことは龍郎にも感じとれた。

(逃げたほうがいいんだろうか? でも、青蘭がいるから大丈夫だよな? 言われたとおりにしてさえいれば……)

 青蘭が戦う気なのかどうかがわからない。それによって、逃げるか向かっていくかが違う。

 しばらく立ちすくんでいると、どこからか音が聞こえてきた。ポクポクと床を打つ音。場違いになごやかなその響きは、馬——それもポニーか何かの(ひづめ)の音のように聞こえる。

(こんなホテルのまんなかに、ポニー?)

 音のするほうを見すえる。
 薄闇を透かし見るように目をこらしていると、廊下のむこうから、やっぱり馬が現れた。いや、ロバかもしれない。馬にしては耳が長い。サーカスのロバのように、赤い手綱や花で飾られている。ロバにしても小さく、とても可愛い。



「なんだ。ロバだ。でも、なんで、こんなとこにいるんだろう?」

 龍郎が安堵の吐息をついて、それにむかって近づこうとしたときだ。
 青蘭が龍郎の手をつかんで、いきなり走りだした。ロバがいるのとは反対の方向へ。エレベーターのほうだ。

「え? 青蘭?」
「ヤツは魔王だ!」
「えッ?」

 龍郎たちが走りだしたとたん、ロバも追ってきた。最初は小さな可愛いロバだったのに、だんだん見ているうちにその姿が大きくなる。サラブレッドほどの黒い馬になり、やがて、それさえも超えて、さらに大きく大きくなっていく。廊下をふさぐほどに巨大化し、口から炎を吹いた。

「うわッ!」
 思わず、龍郎は悲鳴をあげたが、熱くない。炎は冷たかった。

「なんだ、これ?」
「幻なんだ。異相が違う」
「えーと?」
「ヤツの本体じゃないんだ。本体は異次元にいて、影だけを転移させてるんだ」
「なら、捕まっても問題ないのか?」
「いや。馬の姿で現れるのは、魔王ガミジンだ。魔界のネクロマンサー。人の霊魂にふれることができる。たとえヤツが影でも、捕まれば魂を喰われて死んでしまう」
「戦わないのか?」
「僕は本体としか戦えない」

 つまり、逃げるしかないということだ。
 馬の姿をした悪魔は歯をガチガチ鳴らしながら、疾風のような速さで廊下をかけぬけてくる。
 龍郎は青蘭の手をひいて、必死で逃げた。どうにかエレベーターの前まで来る。しかし、上昇ボタンを押してもドアがひらかない。三階に止まっている。降下の矢印はついたが、まにあわない。すぐそこに魔王が迫っている。

「階段しかない!」

 青蘭は幻とは言え、炎を見て気分が悪いようだ。悪魔と対峙したとき、いつも見せる毅然とした態度ではない。顔色が青ざめていた。

(最悪、おれが盾になって、青蘭だけはなんとしても逃がそう)

 エレベーター横の細い廊下へ入り、階段へむかった。
 ふりむくと、馬の悪魔は追ってきていた。そのあいだも大きくなり続け、廊下をピッタリすきまなく、ふさいでしまっている。
 後戻りはできない。悪魔に追いつかれないうちに前へ進むしかない。

 メインになっている廊下にくらべ、横道の廊下は半分ほどしか幅がない。今の魔王のサイズなら、とても侵入できないはずだが、ムリヤリに体をねじまげて通ってくる。顔は長細いから馬のままだが、体はすっかり奇形の物体になっている。粘土で作った馬が細い筒に押しこまれて、もとの形を失ってしまったように、体はねじまがり、変なところから足が生えていた。肛門からは脱糞したように腸がはみだしている。

 龍郎はとにかく、さきへ進んだ。
 階段がある。非常階段のようだ。暗くて狭い。

「青蘭。しっかりしろ。おまえのことは、おれが守るから」
「ここはアイツの作った結界のなかのようなものだ。この世界から出ないと」
「どっちに行けばいい?」
「わからない」

 しかたないので、とりあえず上にのぼっていく。

 高らかな蹄の音は、もはや聞こえない。粘土状の物体となった馬のなれのはては、四本の足のいずれも床に接していない。それでも、異様な速さで迫ってくる。

 つづれ織りの階段をジグザグに走っていくと、踊り場のあたりで、馬の首が前方からとびだしてきた。手すりを乗りこえて、頭部だけつきだしてきたのだ。目の前でガチガチと歯が噛みあい、興奮してたらした魔王のヨダレが泡になって飛んできた。

(もうダメだ。喰われる! 青蘭だけは……青蘭だけは助けないと!)

 龍郎は青蘭を背中にかばい、右手をかざした。苦痛の玉の埋没した右手を。
 光が発した。
 あたり一帯を染めあげる聖なる白い光——

 気がつくと、魔王の姿は消えていた。
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登場人物紹介

 本柳龍郎《もとやなぎ たつろう》


 このシリーズの主人公。二十二歳。

 容姿は本編中では一度も明記されていないが、ふつうの黒髪、ノーマルな髪型、色白でもなく黒すぎもしない平均的な日本人の肌色、黒い瞳。身長は百八十センチ以上。足は長い。一般人にしては、かなりのイケメンと思われる。

 正義感の強い爽やか好青年。とにかく頑張る。子どもや弱者に優しい。いちおう、青蘭に雇われた助手。

 二十歳のとき祖母から貰った玉が右手のなかに入ってしまった。それが苦痛の玉と呼ばれる賢者の石の一方で、悪魔に苦痛を与え、滅する力を持つ。なので、右手で霊や悪魔にふれると浄化することができる。

 八重咲青蘭《やえざき せいら》


 龍郎を怪異の世界に呼び入れた張本人。二十歳。純白の肌に前髪長めの黒髪。黒い瞳だが光に透けて瑠璃色に見える。悪魔も虜にする絶世の美貌。

 謎めいた美青年で暗い過去を持つが、じつはその正体は……第三部『天使と悪魔』にて明かされています。

 アスモデウス、アンドロマリウスという二柱の魔王に取り憑かれており、体内に快楽の玉を宿す。快楽の玉は悪魔を惹きつけ快楽を与える。そのため、つねに悪魔を呼びよせる困った体質。龍郎の苦痛の玉と対になっていて共鳴する。二つがそろうと何かが起こるらしい。

 セオドア・フレデリック


 第二部より登場。

 青蘭の父、八重咲星流《やえざき せいる》のかつてのバディ。三十代なかば。銀髪グリーンの瞳のイケメン。職業はエクソシスト専門の神父。第五部『白と黒』にて少年期の思い出が明らかに。

 遊佐清美《ゆさ きよみ》


 第二部より登場。

 青蘭の従姉妹。年齢不詳(たぶんアラサー)。

 メガネをかけたオタク腐女子。龍郎と青蘭を妄想のオカズに。子どものころから予知夢を見るなどの一面も。第二部の『家守』で家族について詳しく語られ、おばあちゃんが何やら不吉な予言めいたことを……。

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