ダゴンの娘 その三

文字数 2,744文字



 龍郎がドキドキしながらドアを見つめていると、それは、かすかに軋みながら向こう側にひらいていった。

 家の人に見つかったら、確実に泥棒あつかいされる。警察を呼ばれたら、話を聞くどころではない。

(いや、でも、清美さんが言ったことが正夢なら、おれは冨樫さんの運転する船に乗るんだ。問題は起こらない。起こったとしても和解できる)

 よし、ドアがあいたら、まっさきに挨拶(あいさつ)だ! そして事情を説明して、話を聞かせてもらう——そう考える。

 すると、ドアのかげから人の顔が現れた。

「おはようございます! 本柳(もとやなぎ)龍郎と言います。とつぜん、こんなところからお邪魔して、すみません。でも、これには深い事情がありまして……ありまし…………」

 勢いこんでまくしたてたものの、龍郎はその人の顔を見て黙りこんだ。ムダな努力をしてしまった。いや、というより、あからさまな恥をさらした、というべきか?

 薄暗い家屋のなかでも輝く銀髪。印象的なブルーグリーンの瞳。アングロサクソン系の端正な造作。
 なぜだろう?
 廊下に立っていたのは、フレデリック神父だった。

「……なんで、こんなところに、あなたがいるんですか?」
「いや、それはこっちのセリフだよ」

 龍郎はトイレから出て、玄関のほうを見た。玄関があいている。

「また、ピッキングですか?」
「変なこと言わないでほしいな。あいてたんだよ」

 嘘だと思ったが、言い返すのもめんどくさかった。龍郎はため息をつき、トイレの窓から首を出す。

「冴子さん。玄関があいてるから、そっちから入ってきて」
「わかった」

 冴子がウキウキしたようすで前にむかっていく。冴子が来るまでのあいだ、龍郎は小声で神父と話しあった。

「また、調査ですか?」
「そんなものだね」
「この家から悪魔の匂いがしますね」
「ああ。する。だが、大物じゃない」
「あなたの仕事って、賢者の石について調べることじゃないんですか?」
「いや、私はエクソシストだ。世界中が私の仕事場だ」
「わかりました。とにかく、ここは協力ってことで、いいですか?」
「もちろん」

 神父は悪魔退治だと言うが、じっさいには青蘭を追ってきたのではないだろうかと、龍郎は思う。
 そうでなければ、低級中級の悪魔ごときに、わざわざ、海外から何度もエクソシストがやってくるとは思えない。ただの悪魔退治より遥かに重要な案件があるからこそ、こうして、くりかえし来日しているのだ。

「家のなかは調べましたか?」
 龍郎がたずねると、神父は首をふった。ちょうど、そこへ冴子が玄関から入ってくる。

「こっちから、悪魔の匂いしますよね?」
 龍郎は玄関からもっとも遠いほうを指さす。

「ふうん。君、ずいぶん成長したな。慣れたもんだ」
「それは、まあ」
「では、お手並み拝見といこうかな」

 クスクス笑う神父が、なんだか憎らしい。出会ったときからそうなのだが、龍郎はどうも、このフレデリック神父が苦手だ。苦手というか、好きになれない。今日はとくにそんな心地がする。龍郎をあからさまに半人前を見る目でながめるからだろうか。それとも、本能的な何かが、そう告げるのか。

 なんとなくイライラしながら、龍郎は廊下を歩いていった。悪魔の気配が強まる。同時に、それに比例して匂いもきつくなった。とんでもない臭気だ。生臭いのは、さっきの魚のアラが原因ではなかったのか。

 廊下のつきあたりにドアがある。
 どうやら、この内に悪魔はいるようだ。ドアをあけると、そこは脱衣所になっていた。鏡が壁にとりつけられている。奥にもう一つ、ガラスドアがある。しかし、汚い。ヘドロのような青黒いものが全体にこびりついている。足をふみいれるのをためらわれるほどだ。

 風呂場のなかから音がした。水音だ。どうやら、誰かが湯船につかっているらしい。
 だから、呼んでも返事がなかったのかもしれない。

(でも、この匂いは……?)

 思いきって、脱衣所のなかにふみだす。よく考えたら土足のままだが、かえって、それでよかった。素足や靴下では、とても入っていけない。

 ピチャン——と、また水のはねる音。

 龍郎は手を伸ばし、ガラスドアのノブをつかんだ。
 そのときだ。

「あんたたち! そこで何してるんだッ!」

 男の声がして、ダダダッと走りよる足音が近づいてくる。

 神父が叫んだ。
「龍郎くん! やれ!」
 神父は今しも駆けよる男にとびつき、押さえる。

「やめろ! そこはあけちゃならん。やめてくれッ!」

 男も必死で主張する。
 五十代後半か六十くらいの男だ。おそらく、それが冨樫だろう。

 龍郎は迷った。
 自分は船に乗せてもらいたいだけで、冨樫を困らせたいわけじゃない。

「龍郎くん! 何をしてるんだ。悪魔を退治するんだ!」

 神父にうながされ、龍郎はドアノブをまわした。ガラス戸を押しあけると、強烈な刺激臭に襲われ、失神しそうになる。大げさではなく、めまいがした。

 そして、それが、そこにいた。
 人魚……。

 いや、龍郎の知っている人魚とも少し違う。龍郎が以前に見たのは触手の足を複数持つものたちだった。
 が、そこにいたのは、まさしく人魚だ。両足が癒着し、大きなヒレのようになっている。全体の姿形は伝説の人魚に似ている。あんなに美しくはないが。

 どす黒い鱗に全身を覆われ、髪はぬけおち、鱗のあいだから緑色の粘液のようなものを分泌している。手指は退化してヒレになっていた。

 しかし、それでいて、顔だけはかろうじて人間の女に見えた。それも、けっこう美人のようだ。上半分だけに鱗がビッシリとかさぶたのように生えている。下半分の白い肌と赤い唇が生々しくて、かえって残酷だ。

 冨樫の娘だろう。
 話を聞いたときに魚鱗病ではないかと疑ったが、これは違う。
 冨樫の娘は人ではないものに変異してしまったのだ。

 龍郎は冨樫をふりかえった。
 冨樫は廊下に両手をついて、くずおれる。

「冨樫さん。あなたの娘さんは悪魔になってしまった。救われるには、今の命を捨てるしかない」
「ダメだ! 娘は病気だ。ただの病気なんだ! 勝手なことはさせんぞ」
「悪魔に取り憑かれた人間は魂を浄化しないと、人に戻れないんだ」
「違う! 娘はちゃんと、話もできる。こっちの言ってることもわかってるんだ。見ためが変わったって、おれの娘なんだよ!」

 語気にふくまれる真摯(しんし)な思いに、龍郎は胸が熱くなった。
 こんな姿に変容した娘でも、親には愛しいのか。そばにいてもらいたい。それが、親心なのか……と。

 すると、浴槽につかったソレが、やけにギザギザした声音でささやいた。
「おと……さん。わた……にんげ……もどり、たい…………」

 冨樫の両眼から涙が盛りあがる。
 龍郎は浴室に入ると、そっと右手を伸ばし、人魚のひたいにあてた。浄化の白い光が、あたりを包んだ。




 了
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登場人物紹介

 本柳龍郎《もとやなぎ たつろう》


 このシリーズの主人公。二十二歳。

 容姿は本編中では一度も明記されていないが、ふつうの黒髪、ノーマルな髪型、色白でもなく黒すぎもしない平均的な日本人の肌色、黒い瞳。身長は百八十センチ以上。足は長い。一般人にしては、かなりのイケメンと思われる。

 正義感の強い爽やか好青年。とにかく頑張る。子どもや弱者に優しい。いちおう、青蘭に雇われた助手。

 二十歳のとき祖母から貰った玉が右手のなかに入ってしまった。それが苦痛の玉と呼ばれる賢者の石の一方で、悪魔に苦痛を与え、滅する力を持つ。なので、右手で霊や悪魔にふれると浄化することができる。

 八重咲青蘭《やえざき せいら》


 龍郎を怪異の世界に呼び入れた張本人。二十歳。純白の肌に前髪長めの黒髪。黒い瞳だが光に透けて瑠璃色に見える。悪魔も虜にする絶世の美貌。

 謎めいた美青年で暗い過去を持つが、じつはその正体は……第三部『天使と悪魔』にて明かされています。

 アスモデウス、アンドロマリウスという二柱の魔王に取り憑かれており、体内に快楽の玉を宿す。快楽の玉は悪魔を惹きつけ快楽を与える。そのため、つねに悪魔を呼びよせる困った体質。龍郎の苦痛の玉と対になっていて共鳴する。二つがそろうと何かが起こるらしい。

 セオドア・フレデリック


 第二部より登場。

 青蘭の父、八重咲星流《やえざき せいる》のかつてのバディ。三十代なかば。銀髪グリーンの瞳のイケメン。職業はエクソシスト専門の神父。第五部『白と黒』にて少年期の思い出が明らかに。

 遊佐清美《ゆさ きよみ》


 第二部より登場。

 青蘭の従姉妹。年齢不詳(たぶんアラサー)。

 メガネをかけたオタク腐女子。龍郎と青蘭を妄想のオカズに。子どものころから予知夢を見るなどの一面も。第二部の『家守』で家族について詳しく語られ、おばあちゃんが何やら不吉な予言めいたことを……。

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