ラビリンス その二
文字数 2,438文字
春風のような心地よい風が吹きぬけた。陽光がさんぜんと室内を満たしている。まるで、そこに眠る人から光が発しているかのようだ。
その人は
スリーピングビューティー——
まさに眠れる美女だ。
西洋のおとぎ話のなかのお姫様が、百万の華麗な修飾語のまま現実にとびだしてきたら、こうなるだろうか。
総身がふるえるような美貌。
そして、それを見て、龍郎は確信した。
この人だ。いや、これは人ではない。天使だ。輝く羽の見せた夢幻のような映像のなかにいた天使。
美しすぎて不吉な何かを呼び起こしそうな天使が、そこにいる。背中に翼はないが、姿形はそのままだ。
彼は堕天したはずではなかったのだろうか?
なぜ、彼は今、ここにいるのだろう?
龍郎は近づいていって、天使の手にふれた。ヒヤリと冷たい。
(これは……死体だ。生きていない。魂がここにはない)
正確に言えば仮死状態なのだろう。
天使にも生死があるのだとしたら、だが。
すると、青蘭が無邪気な笑顔で言った。
「綺麗でしょ? あのね。ぼくのお友達が教えてくれたの。これ、ぼくなんだって。ぼくが生まれる前のぼく」
「……えッ?」
「ぼくね。ずっとずっと前に悪いことして、ついほう、されたんだって」
龍郎はがくぜんとして、青蘭の可愛らしい顔を凝視する。そんなこと、認めたくない。もしも認めたら、青蘭が遠い世界の人になってしまう。
(そんな……嘘だろ? 嘘だと言ってくれ。青蘭が……まさか)
まさか、天使の生まれ変わりだとでも言うのか?
青蘭の祖母は天使。
天上界でひときわ華麗な存在だった。
だが、“何か”掟にそむくことをして、天上界を追放された。堕天——つまり、地に堕とされ、肉体と魂が二つに裂かれた。地に堕とされ……地上に……。
(肉体は、ここに。魂は……魂だけが転生して、青蘭に……)
そう思うと、ゾッとした。
(違う! おれの愛したのは天使なんかじゃない。人間のおまえだ。青蘭——)
思わず、子どもの青蘭を抱きしめた。
そうしていないと、どこか遠くへ行ってしまいそうな気がした。
「どうしたの? お兄ちゃん」
「青蘭の友達はなんて? 青蘭は罪がゆるされたら、天界へ帰ってしまうの?」
「むずかしいこと、わかんない」
子どもを問いつめてもしかたないことはわかっている。だが、不安が龍郎を駆り立てる。
「青蘭。じゃあ、聞くけど」
「うん。なーに?」
「青蘭は何をして、追放されたの? お友達は話してなかった?」
「えーとね。石をぬすんだの。人のものをとるのは悪いことだって、お父さんとお母さんも言ってたよ」
脳天を鉄の棒でなぐられたような衝撃だ。たしかに以前、青蘭は言っていた。賢者の石は本来、天界のものだと、アンドロマリウスが話してくれたと。
(ほんとに……そうなのか? 天使だったころの青蘭が盗んだから、今、おれたちのなかに二つの玉があるのか? 青蘭はその罪で人間に
堕天
したのか?)動かしがたい証拠が自らの体内にある。龍郎がその苦痛を味わっていると、とつぜん、扉がひらいた。
ひじょうに長身の男が立っている。
ブラウンの髪に青い瞳。
アーサー・マスコーヴィルだ。
「ほう」と、アーサーは龍郎を見ると妙なうなり声を出した。彼にも龍郎が見えているらしい。
龍郎は緊張して立ちあがり、彼と向かいあった。
「アンドロマリウス。おまえか?」
アーサーはニヤリと笑い、
「青蘭。子どもはここに入ってはいけないと、何度言えばわかる? さあ、自分の部屋に帰りなさい」
龍郎の手から青蘭をうばいとる。
青蘭は悲しそうな顔をしたが、うなだれて廊下へ出ていった。
「なかなかの執念だな。よく、ここまで来た。おまえにこれほどの力があると思わなかったよ。龍郎」
「やっぱり、おまえなのか? アンドロマリウス」
「契約する気になったか? 見ただろう? 青蘭は天界の者だ。ただの人間のおまえには釣りあわない」
以前と同じだ。
アンドロマリウスは龍郎の痛いところを的確についてくる。
「これは、おまえの見せる幻かもしれない。おまえはどうしても、おれのなかにある苦痛の玉が欲しい。悪魔は人間をだますのが商売じゃないか」
「そこは信用してもらうしかないな。たとえ、おれがおまえに魔法で幻を見せたとしても、これほど神聖なものを作りだせると思うか? これは、まぎれもなく天使だ。そうだろう?」
それは、そうだと龍郎も思う。
まぎれもなく天使。そのことに間違いはない。ひとめでわかる。
「アンドロマリウス。教えてくれ。これは……誰なんだ? おまえの恋人は悪魔だろう? 魔王アスモデウスだ」
アンドロマリウスはまるで面白がるように微笑する。
「龍郎。勉強不足だぞ? ちゃんと調べればわかったはずだがな。アスモデウスは堕天する前、
「そんな……!」
「おれたちは敵どうしだった。だが惹かれあった。その罰によって、アスモデウスは天界を追放された。見ろ。肉体と魂を裂かれて、あの神々しかったアスモデウスが、今じゃ気の狂った人間の小僧だ」
「それじゃ、青蘭のなかにいるアスモデウスは……」
「もともと、青蘭のなかに“あった”んだ。アスモデウスの魂だからな」
「アスモデウスの……」
違う。青蘭は青蘭だ。
おれの愛した青蘭だ。
そう反論したいが、言葉が出ない。
すると、アンドロマリウスはそそのかすようにささやく。
「龍郎。おまえの玉をくれないか? 青蘭をもう一度、完全な姿にしてやりたいだろ? それには、どうしてもおまえのなかにある苦痛の玉が必要なんだ」
「もしもだ。もしも、おれの玉を得たら、青蘭は——完全な姿に戻った青蘭は、どうなる?」
「当然、天使に戻って、この世から去る。人としての青蘭はいなくなる」
「では、断る」
「いいのか? それは、おまえの自己満足にすぎないんじゃないか? 青蘭にとって、ほんとにそれがいいことなのか?」
そう言われると、龍郎は迷った。