ダゴンの娘 その二

文字数 2,106文字



「——わッ! なッ? ちょっと!」

 あわてて、つきはなすと、運悪く(あるいはラッキーハプニング的に)右手が豊満な肉の感触に、もろにあたった。ふかふかのムチムチだ。

 冴子はちょっと痛そうに、しかめっつらをした。しかし、気を悪くしたわけではなかった。気をとりなおして微笑をなげかけてくる。

「好きな人いるの? だから、イヤがるの?」
「うん。まあ、そういう……」
「あたしじゃない人を好きな男、ふりむかせるの好き。絶対、あなたのハートを射止める」
「いや、それは、ムリだと……」

 自分が青蘭以外の誰かに心変わりするとは、とうてい思えない。その自信はあるのだが、冴子には龍郎のかぼそい反論は無意味のようだった。
 まったく悪びれたようすはなく、坂道をのぼっていく。

「ほら、こっち。こっち」
「遠いなら、車で行くけど」
「それほど遠くないわ。ほら、見えてる」

 漁港を見おろす位置に、その家はあった。周囲は林になっていて、なんとなく暗い。建物は比較的大きく、一般家庭のなかでは成功した人の住居に見える。立派な二階建てだ。

「まわりの家の三倍は敷地あるね。冨樫さんは漁師さん?」
「ずっと前はそうだったって話だけど、とっくに引退してる。今は趣味で魚釣りするくらいじゃない?」
「じゃあ、どうやって稼いでるんだろう? ああ、そうか。年金か」
「娘さんが例の屋敷から帰ってきたときに、ものすごい額の退職金を貰ったって話よ?」
「それって、いつごろの話かな?」
「さあ? 二十年くらい前じゃないの? 知らないけど」

 まあ、冴子の年で伝聞でしか知らないということは、そのくらい(さかのぼ)るということだ。ということは、青蘭が生まれるかどうかというころの話だ。

(二十年前、いったい、青蘭の屋敷で何があったんだろう? それは十五年前の火事に関係してるんだろうか?)

 昭和風の家屋に近づいていった。
 気のせいか、建物に近づいていくと、妙に生臭い。釣った魚でも放置しているのだろうか?

 玄関は引き戸だ。
 呼び鈴が見つからないので、すりガラスの戸をかるく叩く。

「おはようございます。冨樫さん。ご在宅ではありませんか? 冨樫さん。いらっしゃいませんか?」

 返事はない。
 家のなかも静まりかえっていて、無人のようだ。しかし、無人のはずはない。少なくとも、人魚に呪われたという娘はいるはずだ。外出するとは思えない。

「すいません。どうしてもお話を聞かせてもらいたいんです。おられませんか?」

 しばらく、しつこく戸を叩いたが、いっこうに反応はない。
 しかたなく、龍郎は建物の横にまわってみた。冨樫が裏口付近にでもいるのなら、玄関でちょっと戸を叩くていどの音は聞こえないだろう。キッチンにでも誰かいるかもしれない。

 庭を歩いていくと、あの匂いがひどくなった。とつぜん目の前に、大きな穴があった。庭を掘り、そこに生ゴミが捨てられている。魚臭いはずだ。魚のアラが大量に投棄され、蛆がわいていた。

 吐き気をもよおす状況から目をそらし、鼻と口を押さえて、裏口あたりに歩いていく。

 裏手に戸口はなかった。珍しい家だ。一軒家なら、玄関のほか勝手口くらいはあるものだが。

 窓も一つも見あたらない。それどころか、素人くさい細工で、板を打ちつけ、窓や戸口をふさいだような痕跡がある。台風の通りやすい土地柄だから……と言えなくもないが、裏手は雑木林に囲まれていて、それが自然の防風林になっている。ふさぐ必要があるとも思えない。

 見れば見るほど、怪しい。
 冨樫は何かを家のなかに隠している。そして、それを外から覗かれないようにしているのではないだろうか?

「家のなかに侵入してみよう。冴子さん、あなたに迷惑かかるといけない。もう行ってください」
「イヤよ。そんな楽しそうなことから、あたしをのけものにしようとしても、ムダだから」
「…………」

 なんだか、仲間に引き入れてはいけない人をつれてきてしまった気がする。
 しかし、今さら、どうしようもない。

 龍郎は覚悟を決めて、屋内に忍びこめそうな場所を探した。家のまわりをグルッと一周してみると、裏手には窓という窓に板が釘打ちしてあった。玄関のある表側は、頑丈な雨戸が閉めきられている。

 が、横手には窓がある。そのうちの一つだけ、少しだけひらいている。わりと高い位置にあるから、換気用の窓だろう。龍郎はその下に立ち、なかを覗いた。どうやらトイレだ。人影はない。

 音を立てないよう注意しながら、カラカラと窓をひらく。縦五十センチ、横幅三十センチほどの窓。なんとか、龍郎でも通りぬけることができた。便器を足がかりにして侵入する。

「ヒドイ! あたしが入れない。手、届かない」

 外で冴子が騒ぐので、龍郎は嘆息する。残しておくと、ずっとわめいているかもしれない。

「しょうがないなぁ。手、伸ばして」

 なかから手をさしだしたときだ。
 ドアの外で、かすかな音がした。
 ドア——つまり、家のなかからの音だ。誰かがトイレのドアの外に立っている。

(しまった。冴子さんが大声だすから……)

 家人に聞きつけられてしまったのだ。
 もう一度、外へ出るべきか、迷ううちに、ドアノブがまわる。ゆっくりと……。
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登場人物紹介

 本柳龍郎《もとやなぎ たつろう》


 このシリーズの主人公。二十二歳。

 容姿は本編中では一度も明記されていないが、ふつうの黒髪、ノーマルな髪型、色白でもなく黒すぎもしない平均的な日本人の肌色、黒い瞳。身長は百八十センチ以上。足は長い。一般人にしては、かなりのイケメンと思われる。

 正義感の強い爽やか好青年。とにかく頑張る。子どもや弱者に優しい。いちおう、青蘭に雇われた助手。

 二十歳のとき祖母から貰った玉が右手のなかに入ってしまった。それが苦痛の玉と呼ばれる賢者の石の一方で、悪魔に苦痛を与え、滅する力を持つ。なので、右手で霊や悪魔にふれると浄化することができる。

 八重咲青蘭《やえざき せいら》


 龍郎を怪異の世界に呼び入れた張本人。二十歳。純白の肌に前髪長めの黒髪。黒い瞳だが光に透けて瑠璃色に見える。悪魔も虜にする絶世の美貌。

 謎めいた美青年で暗い過去を持つが、じつはその正体は……第三部『天使と悪魔』にて明かされています。

 アスモデウス、アンドロマリウスという二柱の魔王に取り憑かれており、体内に快楽の玉を宿す。快楽の玉は悪魔を惹きつけ快楽を与える。そのため、つねに悪魔を呼びよせる困った体質。龍郎の苦痛の玉と対になっていて共鳴する。二つがそろうと何かが起こるらしい。

 セオドア・フレデリック


 第二部より登場。

 青蘭の父、八重咲星流《やえざき せいる》のかつてのバディ。三十代なかば。銀髪グリーンの瞳のイケメン。職業はエクソシスト専門の神父。第五部『白と黒』にて少年期の思い出が明らかに。

 遊佐清美《ゆさ きよみ》


 第二部より登場。

 青蘭の従姉妹。年齢不詳(たぶんアラサー)。

 メガネをかけたオタク腐女子。龍郎と青蘭を妄想のオカズに。子どものころから予知夢を見るなどの一面も。第二部の『家守』で家族について詳しく語られ、おばあちゃんが何やら不吉な予言めいたことを……。

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