人魚 その三

文字数 2,131文字


 あれは見間違いなどではなかった。
 たしかに鱗だ。
 薄い緑色の硬質なガラスのような破片がかさなりあって、袖の下から覗いていた。


 人魚を捕まえてるのよ——


 ふと、そう言った女の言葉が思いだされる。

 立ちつくす龍郎のかたわらを通りこして、青蘭が平屋建てに近づいた。
 ドンドンと遠慮なく引戸を叩くが、なかから返答はない。

 すると、いつのまに、そこにいたのだろうか?
 とつぜん、背後から声をかけられた。
「おまえさんがた、早くここから出ていきなされ」
 ものすごくアナクロな年よりくさい口調だ。
 ふりむくと、道ばたの石におばあさんが座っている。見たところ百歳には達していそうな老婆だ。

「こんにちは。おばあさん。このへんの人ですか?」
 龍郎がたずねると、老婆は、のそっとうなずいた。
「じゃあ、教えてもらえますか? このあたりに繭子さんという人が住んでいたはずなんですよ。その人の自宅へ行きたいんですが」

 ジロッと老婆の目つきが陰険になる。
 何かいけないことを言ったのだろうか?

 老婆は片方だけ白く濁った目で、龍郎をにらむ。
 なんだか死んだ魚の目のようだと、龍郎は思った。そう考えてしまったことを次の瞬間には申しわけなく感じる。きっと、白内障なのだろう。内心でとはいえ、病気の人に差別的な表現をしてしまった。

 きっと、さっきの鱗のせいだ。人間の腕に鱗が生えているなんて……。

「おまえさん、何者じゃ?」
「えっ? ふつうの大学生ですが」
「あの女の知りあいなんじゃろ?」
「えーと……」

 そこで、龍郎はハッと気づく。
 もしや、老婆は繭子が人ではないと知っているのだろうか?
 だから、繭子に会いにきたという龍郎を警戒したのだ。

「……すみません。じつは、繭子さんは兄の配偶者です。半年前に結婚したんですが、行方をくらましてしまったので。兄が——」

 言いかけてくちごもる。
 これを打ちあけてもいいのだろうか?
 兄が繭子に殺されたのだと。

 迷っていると、老婆の目つきがやわらいだ。
「お兄さんが取り殺されたんじゃないかねぇ? あれはな。人じゃない。化け物じゃ。おまえさんにもわかっておるじゃろ?」
「はい」
「悪いことは言わん。このまま帰りなされ。今度はあんたが、アレに取り殺されるぞよ」

 そうかもしれないが、向こうから追ってくるのだから、どこに行っても同じ気がした。

「ありがとうございます。でも、行かないといけないんです。ところで、おばあさん。このあたりの家は無人のところが多いみたいですね。みんな、働きに出ているんですか?」

 老婆は悲しげな目になった。

「わけが知りたいかい?」
「はい。教えてください」
「いいじゃろう」

 そう言って、老婆はしゃがれた声で語りだす。
「この村は見たとおり漁師の村でな。村人はみんな漁をしながら暮らしとった。村一番の腕前の男がおったんじゃ。男には女房と一人息子がおった。じゃが、息子は幼くして病で亡くなってしまった」
「亡くなったんですか。それは悲しいですね……」
「そりゃもう嘆いてなあ。とくに女房の嘆きは深かった。毎日、息子の墓前で泣いとったんじゃが、あるとき、ふらりと崖の上から飛びおりてな……そのまま遺体は見つからんかったんじゃ」
「痛ましいことです」

 龍郎がつぶやくと、老婆はちょっぴり意地悪な顔つきになった。
「何が痛ましいもんか。迷惑したのは村のみんなじゃよ。じつは息子が亡くなる前にな。男は禁を犯したんじゃ」
「禁……ですか?」

 老婆の双眸が青い海原をあおぐ。
 まるで南の国のそれのように、怖いほど澄んだ明るいマリンブルーの海へ。
 ふりかえった龍郎は、老婆のながめているのが、あのクジラのような形をした島だと気づいた。

「あの島が……何か?」
 忌まわしいものを見るような老婆の険しい目つきにけおされて、龍郎はゴクリと生つばを飲みおろす。

「昔から、あの島は神域だと言われとった。誰も近づいちゃいかんとな。人間の立ち入っちゃならん場所だと伝えられてきた」

 海辺によくある、地方の古い信仰にかかわることだろうと、龍郎は考えた。
 しかし、老婆の口からは思わぬ言葉がもれる。

「あの島には人魚がおるんじゃ」
「人魚……ですか」

 龍郎のとなりで退屈そうにしていた青蘭が、急にピクリと耳をそばだてる猫のように目をみひらいた。
 この話に関心を持ったらしい。
「それは、いつごろから?」と、積極的にたずねる。

「うん。ずいぶん昔から言われることじゃでなあ。何百年も前のことだろうよ」
 答えておいて、老婆は話の続きを語る。
「人魚の肉は万病の薬と言うじゃろ? 男はまだ子どもが生きておったときにな。禁断の神域に一人で漁へ行ったんじゃ。人魚はとれんかったが、そこでとれた魚を息子に食わした。息子はその日の夜になって容体が急変したんじゃ。神さまのバチじゃったんじゃろう」

 魚を食べさせたから死んだわけではあるまいと、龍郎は内心、思った。田舎の人は迷信深いから、禁忌を犯した男を、あれこれと口うるさく揶揄(やゆ)しているのだと。

 しかし、老婆の話はこれで終わりではなかった。むしろ、ここからが本番だったのだ。
「それからじゃのう。このあたりでとれる魚を食べるとな……」
「食べると?」

 思わず、龍郎は身をのりだした。
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登場人物紹介

 本柳龍郎《もとやなぎ たつろう》


 このシリーズの主人公。二十二歳。

 容姿は本編中では一度も明記されていないが、ふつうの黒髪、ノーマルな髪型、色白でもなく黒すぎもしない平均的な日本人の肌色、黒い瞳。身長は百八十センチ以上。足は長い。一般人にしては、かなりのイケメンと思われる。

 正義感の強い爽やか好青年。とにかく頑張る。子どもや弱者に優しい。いちおう、青蘭に雇われた助手。

 二十歳のとき祖母から貰った玉が右手のなかに入ってしまった。それが苦痛の玉と呼ばれる賢者の石の一方で、悪魔に苦痛を与え、滅する力を持つ。なので、右手で霊や悪魔にふれると浄化することができる。

 八重咲青蘭《やえざき せいら》


 龍郎を怪異の世界に呼び入れた張本人。二十歳。純白の肌に前髪長めの黒髪。黒い瞳だが光に透けて瑠璃色に見える。悪魔も虜にする絶世の美貌。

 謎めいた美青年で暗い過去を持つが、じつはその正体は……第三部『天使と悪魔』にて明かされています。

 アスモデウス、アンドロマリウスという二柱の魔王に取り憑かれており、体内に快楽の玉を宿す。快楽の玉は悪魔を惹きつけ快楽を与える。そのため、つねに悪魔を呼びよせる困った体質。龍郎の苦痛の玉と対になっていて共鳴する。二つがそろうと何かが起こるらしい。

 セオドア・フレデリック


 第二部より登場。

 青蘭の父、八重咲星流《やえざき せいる》のかつてのバディ。三十代なかば。銀髪グリーンの瞳のイケメン。職業はエクソシスト専門の神父。第五部『白と黒』にて少年期の思い出が明らかに。

 遊佐清美《ゆさ きよみ》


 第二部より登場。

 青蘭の従姉妹。年齢不詳(たぶんアラサー)。

 メガネをかけたオタク腐女子。龍郎と青蘭を妄想のオカズに。子どものころから予知夢を見るなどの一面も。第二部の『家守』で家族について詳しく語られ、おばあちゃんが何やら不吉な予言めいたことを……。

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