緋色ひとひら その三

文字数 2,183文字


 髪や着物が水を吸い、女の体にベッタリとまといつく。ダラダラと雫がしたたりおちる。

 さっきまで、そこに女はいなかった。
 露天風呂には、龍郎と青蘭の二人きりだった。いかに水が濁っていようと、人間が一人、入りこんでいるかいないかくらい、明確に見わけがつく。

 なのに、いつのまにか、女はそこにいた。入口から入ってきたとしたら、龍郎たちが気づいたはずだし、どこかに隠れて二人をやりすごす広さはない。

 マズイ——と、龍郎は思った。
 あきらかに、霊だ。
 悪魔の匂いを感じなかったが、きっと龍郎たちが浮かれていたせいだろう。

「青蘭」
「うん」

 青蘭もそれに気づいていた。
 急いで帯を結び、板場を出る。

「追ってくる?」
「どうだろう」

 ふりかえってみるが、温泉から出てくる人影はなかった。
 龍郎たちは、ほっとして廊下を進む。とにかく、風呂場で女に襲われる事態だけはさけられた。

 背後をうかがいながら、回廊のところまで来た。つないだ青蘭の手に、ビクッとふるえが走ったので、龍郎は前を見直した。

 ガラス戸越しに、異様な光景が広がっている。さっき通ったときは花が咲き、蝶が舞い、極楽のような景色だった。なのに、今そこは、まったく別の様相に一変している。

 椿は変わらず花をつけていたが、その花がボトリと音たてて落ちると、すぐさま小さな人間の首に変わる。斬首されたような武者の首が、うんうん唸りながら、中庭のあちこちに積もるように転がっているのである。花の落ちた木の枝は、その部分からタップリと血がしたたり、木の幹をぬらしていた。

「助けてくれぇ」
「まだ死にたくない!」
「嫌だぁ。ここからつれだして……」

 うめき声が空間にうずまき、念仏のように聞こえる。

「これ……全部、霊なのか?」
 龍郎がたずねると、青蘭は首をかしげた。
「なんだろう。今までとは何か違う。誰かの結界のなかかもしれないけど……むしろ、異次元みたいな。僕らのほうが来てはいけないところに——彼らの世界に迷いこんでしまったのかもしれない」
「彼らの世界って?」
「わからない……けど、この世とあの世の境、みたいな」

 青蘭が青ざめている。よほど、いつもと勝手が違うのだろう。口調が自信なさげだ。

「たぶん、僕らが呼びよせたんだ」
「おれたちが?」
「そう。僕らに、すきがあったっていうか。幸せいっぱいで浮かれてたから」
「えっ? そんなことで?」
「表裏一体とか、バカと天才って紙一重って言うよね? あれだよ」
「なんだ? それ」
「だから、極端に真逆なものって、直線上は両端だけど、円にしたら隣りになる。ここが、あまりにも天国に近い場所だったから、正反対の別の場所に通じてしまったの……かも?」

 天国の逆。つまり、地獄だ。
 たしかに、中庭はすっかり地獄へと変じていた。幹をつたって流れる血が池を作り、渦をまいている。血の池のなかを生首が無念の涙をこぼしながら、ごろごろ転がっている。ガラス戸にひっついて、恨みがましい視線をこっちになげてくる。

 今にもガラス戸がやぶれそうに軋んでいた。ガラスが割れて血があふれてきたら、どうなるのだろうか? 血の奔流に龍郎たちも足をとられて、流されて……。

 龍郎は青蘭の手をにぎりしめ、回廊をかけだした。だが、何度、かどをまがっても、玄関に通じる廊下が見つからない。それどころか、走るたびに、空間が飴細工のように伸びる、あのイヤな感覚に襲われた。走れば走るほど、正しい道から引き離されてしまうかのような……。

「空間が閉ざされてしまった」と、青蘭は宣告する。

「じゃあ、どうしたら外に出られるんだ? 結界なら、その結界を作った悪魔を倒せばいい。でも、ここがただの結界じゃないんだとしたら?」
「わからない……」

 龍郎たちは立ちつくした。途方に暮れてしまう。
 ガラス戸の向こうは、もはや限界のようだ。天井近くまで、赤黒い血で満杯になっている。ガタガタ、ガタガタとガラスが悲鳴をあげる。

 やがて、どこかでピシリと不吉な音がした。血の海が流れこんでくる。とたんに廊下は川になった。ごうごうと流れる急流だ。

 逃げようにも、回廊の両側から血の川が押しよせてくる。龍郎は一瞬で足をとられた。しかし、青蘭の手だけは離さない。水流にさからい、必死にたぐりよせる。

(青蘭。おまえといっしょなら、たとえ死んでも……)

 ゴボゴボと、かなさびくさい水が鼻や口から入りこんでくる。血液のようにドロドロした液体だ。とたんに息が苦しくなる。

 龍郎は懸命に青蘭の体を抱きよせた。

(青蘭。おまえといっしょなら、たとえ地獄でも、おれは幸せだ!)

 体が重くなる。
 きっと、このまま溺れてしまうのだろう。人間はあまりにも、もろく、弱い。

 悪魔にちょくせつ触れることさえできれば退治もできる。が、ただの怪異には、なすすべがなかった。

 青蘭も苦しんでいるだろうか?

 龍郎は最後にひとめでも青蘭の姿を見たいと思った。青蘭と二人でなら、死の瞬間も満ちたりた思いで逝ける。

 だが、目をあけた瞬間、龍郎はあわてふためいた。ドロリとした血を透かして、目の前に見えたのは、青蘭ではない。まったく別人の顔だ。
 あの女である。
 宿の案内をした無愛想な女。
 そして、露天風呂のなかに着物のままつかっていた霊。

 龍郎は「わッ」と声をあげ、女の手を離した。濁った水のなかで、女はニヤリと笑った。
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登場人物紹介

 本柳龍郎《もとやなぎ たつろう》


 このシリーズの主人公。二十二歳。

 容姿は本編中では一度も明記されていないが、ふつうの黒髪、ノーマルな髪型、色白でもなく黒すぎもしない平均的な日本人の肌色、黒い瞳。身長は百八十センチ以上。足は長い。一般人にしては、かなりのイケメンと思われる。

 正義感の強い爽やか好青年。とにかく頑張る。子どもや弱者に優しい。いちおう、青蘭に雇われた助手。

 二十歳のとき祖母から貰った玉が右手のなかに入ってしまった。それが苦痛の玉と呼ばれる賢者の石の一方で、悪魔に苦痛を与え、滅する力を持つ。なので、右手で霊や悪魔にふれると浄化することができる。

 八重咲青蘭《やえざき せいら》


 龍郎を怪異の世界に呼び入れた張本人。二十歳。純白の肌に前髪長めの黒髪。黒い瞳だが光に透けて瑠璃色に見える。悪魔も虜にする絶世の美貌。

 謎めいた美青年で暗い過去を持つが、じつはその正体は……第三部『天使と悪魔』にて明かされています。

 アスモデウス、アンドロマリウスという二柱の魔王に取り憑かれており、体内に快楽の玉を宿す。快楽の玉は悪魔を惹きつけ快楽を与える。そのため、つねに悪魔を呼びよせる困った体質。龍郎の苦痛の玉と対になっていて共鳴する。二つがそろうと何かが起こるらしい。

 セオドア・フレデリック


 第二部より登場。

 青蘭の父、八重咲星流《やえざき せいる》のかつてのバディ。三十代なかば。銀髪グリーンの瞳のイケメン。職業はエクソシスト専門の神父。第五部『白と黒』にて少年期の思い出が明らかに。

 遊佐清美《ゆさ きよみ》


 第二部より登場。

 青蘭の従姉妹。年齢不詳(たぶんアラサー)。

 メガネをかけたオタク腐女子。龍郎と青蘭を妄想のオカズに。子どものころから予知夢を見るなどの一面も。第二部の『家守』で家族について詳しく語られ、おばあちゃんが何やら不吉な予言めいたことを……。

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