ラビリンス その十

文字数 2,257文字



 そのとき、コツコツと足音が近づいてきた。

 龍郎は緊張して身構えた。
 見まわりの職員だろうか?
 それとも、問題の山羊の悪魔か? 職員の目をごまかして、可愛い青蘭のもとへ恋人きどりでやってきたのか?

 ドアがひらいたら、すぐにとびかかれるように、龍郎は扉の内側に身をひそめた。

 やはり、山羊男だ。
 ドアの向こうで鍵をあけようとする音が聞こえる。やや手間どりながらも、カチャリと錠の外れる音とともに、ゆっくりと扉がひらく。

 ところが——
 龍郎が襲いかかろうとすると、それは思いがけない人物だった。

「あッ。あなたは——」
「おいおい、せっかく助けに来たのに、殴るつもりじゃないだろうね?」
「すいません。あなただとは思わなかった」

 整った面差しに渋い笑みを浮かべるのは、フレデリック神父だ。青蘭の心の迷宮のなかだから、龍郎と青蘭のほかは過去の産物しか存在しないのだと思っていた。

「なんで、あなたが、ここにいるんですか?」
「なんではないだろ? 私のほうが知りたい。急にあたりが光って、君と青蘭の姿が消えたと思ったら、迷路みたいなところに飛ばされていたんだから」

 龍郎は周囲を見まわした。神父以外の人はいない。

「最上や冴子さんは?」
「知らない。バラバラになったようだ。ここは悪魔が作る結界によく似てるな。封印された空間のなかだね?」

 龍郎はそれには答えなかった。
 青蘭も黙っている。
 青蘭の記憶のなかだと言えば、打ちあけたくないことまで、さぐられてしまうかもしれない。青蘭の名誉のために沈黙を守った。

「じゃあ、二人を探しながら出口を見つけましょう」

 龍郎は青蘭と手をつないだまま、廊下へぬけだした。神父が龍郎たち二人のようすをジロジロ見ている。

「以前より親密になったな。何かあったのかな?」
「なんでもいいじゃないですか」
「よくはない。私は青蘭に惹かれている」

 龍郎は呆然としてしまった。
 なんて、あけすけなんだろうか。
 まだ数回しか会っていない相手に、よく軽々とそんなことが言える。

(お……おれだって、青蘭を好きだと自覚するまでには、それなりの時間がかかったし、ここまで辿りつくまでに、どれほど苦労したと思ってるんだ?)

 意味もなく神父を嫌ってたのは、ここに要因があったんじゃないだろうかと、龍郎は考えた。恋する者の勘で、神父がライバルだと気づいていたのだ。

 ムカムカしながら、心配になって青蘭を流し見た。が、案ずることはなかった。青蘭の鋼鉄の箱に守られたガラスの心には、このていどの言葉はまったく響かない。青蘭は、しらけた顔で神父をながめていた。
 ちょっと前まで、自分もこんな目で見られていたんだなと思うと、急に龍郎はおかしくなった。

「それにしても、静かだなぁ。今は真夜中なのかな?」と、優越感にひたって話をそらす。

 青蘭が応える。
「たぶん。それにしても、変だな。血の匂いがしない?」

 たしかに、それは龍郎も感じていた。
 病院だから、消毒薬の匂いがするのはしかたない。が、この鉄分くさい匂いは、あきらかに血だ。ふつうの病院なら手術や採血など、血液をあつかう場面もあるのだろうが、ここは青蘭専用の診療所だ。誰かの手術をしているとは考えにくい。

 廊下の角まで来た。
 手術室と書かれた部屋が見える。
 血の匂いは、あそこからだろうか?

 慎重に足音を殺しながら、手術室の前まで歩いていった。ドアに耳をあててみるが、なかから物音はしない。無人らしく思える。

 龍郎はドアノブをにぎり、そっとまわした。ドアのすきまから、むっと強い臭気が漂ってくる。血だ。ものすごく、なまぐさい。

 のぞくと、室内はLEDの白い光で照らされている。手術台の上のものを見て、龍郎は「うッ」と口を押さえた。正視に耐えないものが、よこたわっている。

 女——だが、性別がわかるのは、かろうじて、まともな部分の体格からだ。手術台にあおむけに寝かされた状態の上半分を……つまり、表側の部分をすべて切り刻まれている。頭のてっぺんからつまさきまで、体を二分するように、そぎとられてミンチ状になった肉が、近くの台に山盛りになっていた。

「看護師の誰かみたい。背中側の部分、ナース服を着てる」と、青蘭は冷めた目で言った。

 龍郎は吐きそうになったが、なんとか、こらえた。それにしても、これは、どういう状況だろう?
 誰かが人体実験して、ナースを解剖したのだろうか? それとも、何か別の理由で?

「青蘭。聞くけど、おまえがここにいたころ、看護師が殺されたとか、行方不明になったって事件はあったのかな?」

 青蘭は首をふった。
「そんな覚え、僕はない。と言っても、僕が知らないだけかもしれないけど。監禁されてからは、病室の外のことはよくわからなかったから」
「ふうん」

 ここが青蘭の記憶から形成された世界なら、青蘭が知らないことは起こらないはずだ。

(アスモデウスの記憶か、または魔法が別の世界につながってしまったか……)

 青蘭がつぶやいた。
「もしかしたら、十五歳のころの僕の願望が具現化してるのかも。人間なんて、みんな死んでしまえばいいって願ってたから。とくに、ここのヤツらは、全員、死ねばいいって」

 青蘭の記憶が暴走し始めたということか。となると、龍郎たちの身の安全も保証はない。

「ここを出よう。建物から出たら、現実世界に帰れるかもしれない」

 龍郎は手術室をあとにした。
 廊下を歩いていると、暗闇のさきを誰かがよこぎった。非常灯の光を受けて、長く黒い男の影が伸びる。影は、その手にメスをにぎっていた。
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登場人物紹介

 本柳龍郎《もとやなぎ たつろう》


 このシリーズの主人公。二十二歳。

 容姿は本編中では一度も明記されていないが、ふつうの黒髪、ノーマルな髪型、色白でもなく黒すぎもしない平均的な日本人の肌色、黒い瞳。身長は百八十センチ以上。足は長い。一般人にしては、かなりのイケメンと思われる。

 正義感の強い爽やか好青年。とにかく頑張る。子どもや弱者に優しい。いちおう、青蘭に雇われた助手。

 二十歳のとき祖母から貰った玉が右手のなかに入ってしまった。それが苦痛の玉と呼ばれる賢者の石の一方で、悪魔に苦痛を与え、滅する力を持つ。なので、右手で霊や悪魔にふれると浄化することができる。

 八重咲青蘭《やえざき せいら》


 龍郎を怪異の世界に呼び入れた張本人。二十歳。純白の肌に前髪長めの黒髪。黒い瞳だが光に透けて瑠璃色に見える。悪魔も虜にする絶世の美貌。

 謎めいた美青年で暗い過去を持つが、じつはその正体は……第三部『天使と悪魔』にて明かされています。

 アスモデウス、アンドロマリウスという二柱の魔王に取り憑かれており、体内に快楽の玉を宿す。快楽の玉は悪魔を惹きつけ快楽を与える。そのため、つねに悪魔を呼びよせる困った体質。龍郎の苦痛の玉と対になっていて共鳴する。二つがそろうと何かが起こるらしい。

 セオドア・フレデリック


 第二部より登場。

 青蘭の父、八重咲星流《やえざき せいる》のかつてのバディ。三十代なかば。銀髪グリーンの瞳のイケメン。職業はエクソシスト専門の神父。第五部『白と黒』にて少年期の思い出が明らかに。

 遊佐清美《ゆさ きよみ》


 第二部より登場。

 青蘭の従姉妹。年齢不詳(たぶんアラサー)。

 メガネをかけたオタク腐女子。龍郎と青蘭を妄想のオカズに。子どものころから予知夢を見るなどの一面も。第二部の『家守』で家族について詳しく語られ、おばあちゃんが何やら不吉な予言めいたことを……。

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