地下室からのコナトゥス【第八話】

文字数 1,425文字

ずっと前に悟性についての説明をしたのだけれども、それを踏まえて。バトラーによる悟性の説明からだな。
なのです、なのです。バトラーは「悟性」の「説明」として、「力は意識から自己意識への移行において本質的である」と言います。それはどういうことか、なのですが。
力において「一」と「多」は統一されるとするのです。力は「現象」には還元されない。力は本質的になんらかの物質を通して現れるのですが、それ自体は物に限定されるものではなく、その物を展開する背景でもある。力とは本来こんな風な運動の全体を指す、というのです。
意識は力の「現象」を媒介にして、その背景にある力の運動を見出すことができる、とするのです。……ですが、この悟性の「説明」の試みは失敗するのです。劇は失敗すると予告されていたのを覚えてますか。ここにこの試み、劇は失敗し、その「失敗」が「欲望を可能にする存在論的舞台」そのものなのです。
力技で持ってきたな……「力」なだけあって。
悟性の力の運動は失敗する。それは「悟性がつねに現在時制において対象を固定する」からだ、とします。それは力の運動を固定した対象を把握しようと努める試みでした。したがって、悟性において「力は一連の孤立した現象として説明される」。
悟性の問題は「反省性が欠けている」とします。ですが逆に、悟性の「失敗した説明」は対象志向的でしかなかった意識に「反省性」の必要性を生み出させる契機にもなる、と言えるわけなのです。
悟性には反省性が欠けていたのですが、しかしその失敗した説明は、結果的に「反省性」を実現することになる、とバトラーは述べるのです。ひねくれていますね。
もともと意識の対象であった「感覚的・知覚的世界」は「説明としての対象」の「外部」に維持されたままです。ここに、「新しい分離」が生じてしまうのです。それは「外的で到達不可能な世界の現象と、意識の出来の良い説明に証されている真理の分離」だ、と言うのです。この分離を乗り越えるために、「感覚的・知覚的世界は意識と『統一』されねばなら」ず、その『統一』の試みが『自己意識』であり、その自己意識が最初にとる形態こそが『欲望』なのだ、と結論します。
ひねくれた説明だけど、要するに、失敗した説明が新しい分離を生じさせて、ある種の止揚というか、乗り越え統一する試みをすることになる。それが自己意識なんだけど、自己意識が最初にとる形態が『欲望』だった、って話ね。
意識をその舞台とした劇は自己意識に統一されようとし、その最初の現れの形態が欲望だった、と。
バトラー曰く「説明のレトリカルなドラマは欲望のドラマにおいてより具体的な水準で再現される」、なのです。
ヘーゲルの現象学の「悟性」章における「説明」が、「欲望を可能にする存在論的舞台」だったことが、これによってわかったわけなのです。
と、いうことは、これから『説明』という舞台(ドラマ)が、「意識」と「世界」の不均衡を乗り越えるために『欲望』を生み出す、っていう筋書きで進むのね。説明のドラマから欲望のドラマへ、と移り変わっていく。
欲望の主体とはなにか。それを追っていくことになるのです。欲望は承認を求めるのです。そこで話が次につながっていくのです。
一言でまとめると。今回はドラマ〈欲望〉の存在論的〈舞台〉とは〈「悟性」章〉における『説明』そのものだった、というお話なのでした。
じゃ、先へ進みましょうか。
     と、いうわけで、次回へつづく。
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登場人物紹介

【田山理科】

 主人公にして家主。妹のちづちづと知らない町に引っ越し、二人で暮らしを始めたが、ちづちづがどこからか拾ってきた少女・みっしーも同居することに。趣味は絵を描くこと。ペインティングナイフを武器にする。

【みっしー】

 死神少女。十王庁からやってきた。土地勘がないため力尽きそうなところをちづちづに拾われて、そのまま居候することに。大鎌(ハネムーン・スライサー)を武器に、縁切りを司る仕事をしていた死神である。

【ちづちづ】

 理科の妹。背が低く、小学生と間違われるが、中学生である。お姉ちゃん大好きっ娘。いつもおどおどしているが、気の強い一面をときたま見せる。みっしーとは友達感覚。

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