小説家は詩情を持ちつつそれを隠せ【第五話】

文字数 1,048文字

詩人は主観主義、小説家は客観主義、という前回の議論を踏まえて、今回は行くわね。
表現に於ける主観主義と客観主義の違いのお話になるのです。
主観主義とは「目的のための旅行家」であり、客観主義は「旅行のための旅行家」だ、と萩原朔太郎は言うのです。
つまり詩人は「目的のための旅行家」で、小説家は「旅行のための旅行家」、ということになるのね。
詩は主観上に於ける欲情や生活感を訴えるべく、目的に向かって一直線に表現する。それと違って小説は、人間生活に於ける社会相を観察することそれ自体に興味を持っている。これが朔太郎の見立てなのです。
小説家にとってみれば、主観に於ける人生観やイデアは、表現の直接の目的になっていない、と。
いまさらながら説明すると、『イデア』というのは、本当にこの世に実在するのはイデアであって、わたしたちが肉体的に感覚している対象や世界とはあくまでイデアの〈似像〉にすぎない、とする場合の、「見られるもの」のこと、つまり似像であるものの「姿」や「形」を意味する言葉よ。
小説家にとっての表現の目的は、社会の実情を観照し、人情をきわめ、風俗を知り、旅行のいたるところに観察を見出すことに存じている、というわけなのです。故に、〈小説すること〉とは、人生に於ける一つの「勉強」であり、また、真の仕事である、と朔太郎は定義するのです。
一方の、詩の方は。
詩はこの点の態度に於いて、小説と大いに異なる、と朔太郎は言うのです。
詩人は「目的のための旅行家」であって、旅行することそれ自身、芸術することそれ自身の中に興味を持たない、と断言するのです。
詩人は常に主観を掲げて、エゴを「訴える」ことのみを考えている、と。故に詩を作るということは、『祈祷』であり『詠嘆』である、と言うのです。格好いいですね。なので、自ら作るその芸術は詩人にとってなんの「仕事」でもなく、「勉強」ですらないのです。
要するに、詩人は「生活のための芸術家」であり、対する小説家は芸術を〈生涯の仕事〉と考えているところの、「芸術のための芸術家」である、と結論されるのです。
今回は短いけど、区切りが良いから、ここらへんにしておくわね。次は、「生活のための芸術」である詩の「目的」とはなにか。そこから切り込みましょう。
歯がゆいところで区切ろうとしますね、理科。
じっくりと吟味したいじゃない、詩と小説の、その違いのなんたるかを。『祈祷』であり、『詠嘆』である詩の創作者たる、朔太郎の言葉で。
なるほど。いいでしょう。
   そんなわけで、次回へつづく!
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登場人物紹介

【田山理科】

 主人公にして家主。妹のちづちづと知らない町に引っ越し、二人で暮らしを始めたが、ちづちづがどこからか拾ってきた少女・みっしーも同居することに。趣味は絵を描くこと。ペインティングナイフを武器にする。

【みっしー】

 死神少女。十王庁からやってきた。土地勘がないため力尽きそうなところをちづちづに拾われて、そのまま居候することに。大鎌(ハネムーン・スライサー)を武器に、縁切りを司る仕事をしていた死神である。

【ちづちづ】

 理科の妹。背が低く、小学生と間違われるが、中学生である。お姉ちゃん大好きっ娘。いつもおどおどしているが、気の強い一面をときたま見せる。みっしーとは友達感覚。

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