地下室からのコナトゥス【第九話】
文字数 1,937文字
〈「悟性」章〉での〈説明〉こそが「欲望を可能にする存在論的〈舞台〉」だった。そしてその説明のレトリカルなドラマはこれから〈開演〉される〈欲望のドラマ〉において、より具体的な水準で再現されることになるのね。
意識が対象、ないし世界から存在論的に区別されたものであったにも関わらず、「意識自身がその世界の真理の規定に参与している」というパラドクスを示し、かくして意識が「絶対的現実を規定するという主要な存在論的役割を担う」。
パラドクスを乗り越えるために、欲望の経験は運動と他性の総合として内的に現れるのです。言い換えましょう。「説明」のドラマでは「外的差異」として現れた意識と世界の不一致が、「欲望」においては「内的差異」として再演されるのです。
『現象学』によれば、欲望がはじめにとる形態は「消費」なのです。欲望は「動物的な飢え」として現れるのです。この意味で、欲望は「この生きている対象」を破壊し、食べることで自己自身に「ポジティヴな形態」を与えようとするのです。
しかし、なのです。バトラーによればそれは「パラドキシカルでレトリカルな結論」を導くといいます。「消費する欲望」は「この生きている対象」を破壊し、否定する。そしてこの否定作用を通して、「欲望は生命における一種の死の経験になる」と、バトラーをして言わせることになるのです。
この経験を通して欲望が学ぶのは、逆説的にも対象の自立性であり、その対象への依存だ、ともとれるものなのです。「消費する欲望」の「否定」は、その否定が可能になるために対象を必要とする。そのために、その欲望は自己の〈他〉のものへの「依存」を見出すのです。
「消費する欲望の経験はふたたび自己意識とその対象の媒介された関係を明示している。なぜなら、欲望の経験は、独立した対象にまず関係づけることなしには自己確信を与えることができないからだ。結果的に、破壊する行為主体は破壊される世界なしにはどんな同一性も持たない。したがって、この存在、すなわち、生命からの彼の追放を認めながら、すべての生きている事物を破壊しようと努めるこの存在は、ついに逆説的にも生きているものの世界への彼の本質的な依存をドラマ化することになる」と、バトラーは言うのです。
もうひとつ、バトラーから。「欲望は欲望している行為主体がつねにそれ自身に対して他なるものであることを示す。すなわち、自己意識は自己自身を取り戻すために、脱ー自的な存在であり、それ自身の外側にあるのだ。欲望の対象の増殖は自己意識に対して永続的な他性の領野を確約する」。
「欲望はそれが生きたものであるために〈否定的なもの〉を耐え忍ぶのであり、言い換えれば、欲望はその満足をついに奪われている。欲望は構成的に『他性の終わりのない増殖を要求する』ため、その主体をつねに『自己の外に』置くのである。『欲望はつねに欲望の行為主体をそれ自身に本質的に他なるものとして示す』」
それでは、次回へつづく。