地下室からのコナトゥス【第十六話】
文字数 1,658文字
欲望を法との否定的関係において表象することは、そのような法が抑圧し禁止する欲望を法の外部に前提することを意味するのです。例えばラカンにとって欲望はつねに「欠如」の相で捉えられますが、これはラカンが「享楽」という「抑圧」に先立つ真の欲望を維持するからだ、とバトラーは言うのです。
そして、『性の歴史』から導入される概念が、『生権力』。「殺すための権力」ではなく、「生かすための権力」。なんでも殺してたら焼け野原と人材に投資したお金などの借金しか残らないでしょ。なので、「生権力」というのが生まれたって話ね(語弊があるだろうけど)。
バトラーは「ヘーゲル的主体」が「主人と奴隷の弁証法」に認められるような「支配」と「服従」の二元論的対立を止揚し、内包的な主体を生み出す。対してフーコーはこんな対立は弁証論的に止揚されるものではない、と述べているのです。
フーコーは『性の歴史』で、セクシュアリティを抑圧する言説が声高に叫ばれた時代においてこそ、セクシュアリティが増殖していたこと、また、病理学用語であった「同性愛者」という言葉が、病理化に対して「抵抗」する側に流用されたことなど、二元論を覆す「増殖」や「反転」があったのです。バトラーはこれを『非弁証法的転覆』と呼ぶのです。
セクシュアリティについて「語れない時代」があって、だからこそセクシュアリティについて語ろうぜ、とフーコーは書いたのだけど、実際はフーコーの認識はそこでは外れてて、むしろ性に対するディスクールは、増殖していたのよね。そこを踏まえての、この発言であることがポイントね。ちなみに「言説」と訳されるのは「ディスクール」という言葉よ。重要な概念だから、気を付けてね。
バトラーによってそれは「ヘーゲルからフーコーを通し、欲望は私たちを奇妙にも虚構的存在に変えるようである。そして〈承認=認識〉の笑いは洞察の機会であるように思われる」と言われることになるのです。バトラーはフーコーを「希薄な弁証法家」と呼び、その系譜額を「壊れた弁証法」と形容するのでした。
権力が自身を規制し服従させることを通して主体を形成するものであれば、そして欲望が権力の装置であり言説であるのなら、そのとき、「欲望の主体」は、それが排除してきて、しかしそれ自身の条件である「身体の歴史」を抱え持つことになるのです。
欲望は歴史的な特定の諸身体のあいだの相互関係の文脈において理解される必要があるけれど、「どんな主体」が「どんな犠牲を払って」生み出されているのか。それは『欲望の主体』では書かれずに、試みが実現するのは次の著書『ジェンダー・トラブル』についてなのよね。
つづく!