第116話 近代性とは普遍的な価値や善は存在しないということ

文字数 3,188文字

今日は地元の偉いひとのひとりと話をしていたの。そのひとは言うわけ。「ひとびとに称賛されるようなことをするひとは偉い。ひとを殺すのは悪い人間だ。ひとを殺すのは絶対に悪い」と。偉いってのは、悪と対比していることから、そのひとのなかでは正義とニアリーイコールである可能性が高い。文脈上ね。
人々に称賛されるひとが偉いとはボクは思いませんが、まあ、素朴にそう思う、ということはあるのです。世間と迎合している、と批判するひともいると思うのですが、そこは日本。体育の授業では数十年前までは「右に倣え」という号令をかけられて規律正しく動くことをしていたのです。これを〈ドリル〉と言うのです。軍事教練を指す言葉ですね。ディシプリンの一種なのです。軍隊と刑務所と学校では、こういうのを奨励するのです。なので、それは時代背景を考えると、その偉いひとは高齢の方だったので仕方ないとボクは思うのです。
そうね。詳しくはミシェル・フーコー『監獄の誕生』を読んでね。今回は、その後半の方の「悪」の話。
ひとを殺すのは悪い人間だ。ひとを殺すのは絶対に悪い、という話ですね。
言ったひとが「死刑反対!!」って立場ならわかるわよ、そりゃあ。だって、殺すのは絶対にダメなら、死刑もダメでしょ。殺すんだから。犯罪を犯したから殺していいという例外をつくるのは殺すのが絶対にダメなら、ダメよね。
近代の死刑にギロチンが使われたのは当時は「ほかの方法より痛くないから人道的」って理由だったのです。人道的ならいいってそれもおかしな話ですね、現代の見地からなら。また、現代の絞首刑は、基本的には数人が一斉に十三階段を外すボタンを押して、「誰が殺したのかわからない」ようにするのは有名な話ですね。じゃあ、誰だかわからないならばいいのか、という話ですね。殺すのが絶対にダメなら、これらは論外です。
ハイデガーの最悪な、それでいて意味不明な間違いも、考えてみましょう。民族主義に走ったハイデガーは、差別に加担するのだけど、ある特定の人々は、「これは人間ではないから殺してよい」ということを言ったわけ。その主義の上層部に至っては「恥である」と見做した人間全員を、フタを閉めると言わんばかりに、殺したわね。これ、ちょっとサイトの規約上、ギリギリなのでぼかして今、話しているけど、それでもひどい。
ハイデガーが再評価されたのは、殺された人々と同じ系統の人々である、ジャック・デリダが「ハイデガーの思想を勘違いしている」と言って、評価したことが大きいのです。これは、ニーチェにしたって似たところがあって、再評価されたあとの時代に生きているからわからないかもしれないけど、ハイデガーもニーチェも、悪者で読んではダメな時代もあったのです。
オノ・ヨーコが立派だとわたしが思うのは、旦那さんのジョン・レノンが殺されたけど、死刑反対論者なので、犯人を死刑にするかどうか決めるときに、決められる立場にいたので、死刑にしないようにした、ということなのよね。例えば、死刑反対なら、最愛のひとを殺されて、死刑にすることが出来るときも、極刑にしないようにする、という決断が必要よね。
ひとを殺すのはよくないですね。悪いのです。なので、これ、ひとを殺すのは絶対にしてはいけないのは法律で決まっているので、罰則を受けるのは当然ですが、基本的に「ひとを殺すのは絶対にダメなことである」って習うのは、実はレアケースなのです。
そうね。習うのはどこの時代でも、明言しなくても、それが指すことは、正確には「味方を殺すな!」なのよね。同胞を殺してはいけない。何故って、仲間割れをしていたら統率が取れないから、なのよね。「自分らにとっての悪は倒す」、……倒すというのは、殺したり征服したり屈服させるという意味ね。で、悪を倒すのに、統率が取れなかったりましてや自分ら味方同士で殺し合ったら、やっていけないのよね。そういうロジック。
言い直すのです。「味方は殺すな」「敵は倒せ(殺せ)」。これがだいたいのグローバルスタンダードです。好戦的になってるところなどを、各自、思い起こしてみるのです。基本的には、そういうロジックです。それを「野蛮だ」と感じた場合、「味方」の「範囲」が、「地域」や「国」ではないのですね。でも、例えば今、あきらかに侵略戦争をしている国のボス、このひとは負けたら裁かれますが、ルールに則って長い時間をかけて裁判をしますね。そのときは殺される可能性は非常に高いですね。
さて、軍隊や、駆り出された人々は直接的に侵略先で「殺す」わね。そして、そこのボスは直接じゃなく、「殺すように指図する」わね。では、駆り出されて、指図されて人々を殺した人間全員を、国際法上のルールで、一人残らず「死刑」にすることは、戦争が終わったあと、するかしらね。あり得ないわよね。これをどう捉えるか。「殺した」から「殺す」かしら。そうはならないとしたら、味方ではなく、この場合、考えるのは「敵とはなにか」という問題よね。
カール・シュミットから引用するのですが、大澤真幸先生の書いているインターネット記事からベタ貼りすると、「政治に固有な区別は、敵、友(清水幾太郎訳では『味方』)という区別にある」となるのです。


シュミットによれば、政治の最も重要な任務は誰が友で誰が敵かを決断することにある。敵は、物理的手段を用いて殺害する可能性もある他者のことなので、この政治概念には不穏な含みがある。この概念から普通に連想されるのは、君主や主人が臣下に「敵を倒せ!」等と命令している姿だろう。するとシュミットの政治観は前近代的で保守的なものだと思いたくなる。しかしそうではない。 まったく逆に、この政治概念は、近代性ということをまじめに純粋に受け取ったときにこそ導かれるアイデアである。近代性とは、誰もが受け入れる(内容豊かな)普遍的な価値や善は存在しない、ということだ。全員に自明なものと見なされる善の観念や宗教的な規範はない。だから普遍的な善や正義が存在しているかのように仮定し、それらによって政治行動や戦争を正当化することは許されない。では近代の条件のもとで、政治はどうすべきなのか。暴力的とも見える仕方で秩序を押し付けるほかない。それこそが、友と敵の区別だ。「この命令を受け入れる者が友である」とする決然たる意志が必要になる。

=朝日新聞2020年7月4日掲載


以下、この文章が書かれてあるURLのリンクを張るのです。

近代性とは、誰もが受け入れる(内容豊かな)普遍的な価値や善は存在しない、ということだ」というのがとても重要ね。はい。今日はこれだけ覚えていってね。
繰り返すと、「(近代性には)全員に自明なものと見なされる善の観念や宗教的な規範はない。だから普遍的な善や正義が存在しているかのように仮定し、それらによって政治行動や戦争を正当化することは許されない」のです。
で、逆説的に、「政治に固有な区別は、敵、味方という区別にある」というのは、現代でも通用する。
よって、味方は守らなくちゃならないし敵は倒さなくちゃならないという古そうな理屈は、実は近代性を純粋に受け取る場合は、依然として有効なロジックとなるのです。
今日、わたしが地元の偉い人と話して思ったのは、そういうことだった、という、これはそういう話。でも、個人的には、ルールは、またそれとは別のレイヤーだと思うわよ!! 戦争はよくないと、個人的には思う。けど、起こるのはこのロジックがあるからで、歴史に戦争がない時代はなかったわよ。 暴力的とも見える仕方で秩序を押し付けるほかない、わね。
ま、個人の意見ですが。
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登場人物紹介

【田山理科】

 主人公にして家主。妹のちづちづと知らない町に引っ越し、二人で暮らしを始めたが、ちづちづがどこからか拾ってきた少女・みっしーも同居することに。趣味は絵を描くこと。ペインティングナイフを武器にする。

【みっしー】

 死神少女。十王庁からやってきた。土地勘がないため力尽きそうなところをちづちづに拾われて、そのまま居候することに。大鎌(ハネムーン・スライサー)を武器に、縁切りを司る仕事をしていた死神である。

【ちづちづ】

 理科の妹。背が低く、小学生と間違われるが、中学生である。お姉ちゃん大好きっ娘。いつもおどおどしているが、気の強い一面をときたま見せる。みっしーとは友達感覚。

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