地下室からのコナトゥス【第三話】
文字数 1,304文字
バトラーにとってスピノザはヘーゲルによって乗り越えられる存在ではないのです。「スピノザの欲望の概念、コナトゥスと理性的な自己の実現化はヘーゲル自身の概念を前もって示している」と、バトラーは語るのです。
『権力の心的な生』から。「もしも、欲望とはつねに自分自身の存在へと固執する欲望であるというスピノザの概念を受け入れ、そして欲望の理想を形成する形而上学的実体を社会的存在のより柔軟な概念として再定義するのなら、そのとき私たちは自分自身の存在に固執する欲望を危うい諸関係のなかでのみ媒介されうるようななにかとして記述しなおす準備ができているということになるだろう」
スピノザのコナトゥスを「社会的存在の柔軟な概念として再定義する」必要性です。このコナトゥスを、社会的存在を考察するための概念として再定義するのが、バトラーの視座となるわけです。ヘーゲルの導入も、コナトゥスの概念を再構築するためだった、と言えるのです。……これは受け売りなのですけどね。
名著『ジェンダー・トラブル』は「ジェンダー規範から外れ、その規範の混乱に生きている人々が、それでも自分たち自身を、生存可能な生を生きている者としてだけでなく、ある種の承認に値する者としても理解できるような世界を想像する試みだった」ものだ、と。
「生きながらにして死を宣告された者」が自死することを、果たしてコナトゥスとは無縁な「外的要因」のためであるとみなすことはできるのか、なのです。バトラーがヘーゲルを介してコナトゥスを「承認を求める欲望」として再定式化し、その思想を「社会的存在」に関する理論として構築できるかを考えたのは、このためなのです(正確には、もっと生々しいことが書いてあるのですが、割愛するのです)。
社会から排除された者が「生存」し、「承認」に値する「生」を送ることができる世界とはいかなるものか。この問いは「絶望のなかにあってさえ固執する一種の生気論」に、潜在的に見いだせる問いなのだ、ということであり、今後は、バトラーがこれをいかに引き受け、探究したかを見ていくことになるのです。
次回へつづく!