理性の系譜【第六話】

文字数 1,288文字

18世紀後半、狂気の〈反転〉が起こったのでした。
宇宙的闇夜のビジョンでもあった狂気は、非理性であるとともに、人々を魅了するものだった。宇宙的闇夜……言葉からわかるように、狂気は〈自然〉の側の〈獣性〉であったわけね。今回は触れないけど、例えばシャーマニスティックな呪術的社会においては、狂気の〈神憑り〉が信仰の対象とされていたことからそれはわかるし、言ってしまっていいかわからないけど、いわゆる聖書の預言者たちにも、その性質はあると見做す学者もいるわ。それが、反転する。
どう反転したか。国家主導で医学の制度化が進むにつれて、狂気は「病気である」と見做されるようになる。それはつまり、〈人工の派生物〉であり、狂気は〈家庭〉などの『自然』と対立する、病とされたのよ。そして、病気には〈治療〉が必要とされる。
監禁の空間と治療の空間を一致させる、『狂人保護院』が、完成されることとなったわ。今日は、その後のお話。
18世紀末、ついにフランスでは医師、フィリップ・ピネルによって、狂人収容施設となっていたビセートルで、鎖につながれていた精神錯乱者たちが〈釈放〉されたのです。ビセートルは以降、狂人保護院としての機能を担ったのです。ここに、狂人の「解放」という〈伝説〉が形成されたのです。
でも、フーコーによれば、そこで起こったのは、伝説の全く反対のことだった、というのね。
そうなのです。精神錯乱者たちは、狂気を裁く監視者の視線を内在化させられるのです。つまり、自分の狂気を〈罪〉として内面化し、社会の道徳価値から逸脱した自分を〈罪びと〉として自ら裁くことを強いられるようになったのです。その意味で、治療は道徳的懲罰と同義と言えるのですね。
したがって、ミシェル・フーコーによれば狂人は「解放」されたのではなく、「監禁」の内部構造が〈再編成された〉だけだった、というのです。
この構造は、医者と患者の間に、新しい関係性を生むのです。どういう関係か。それは、〈医学的人間に対する過度の崇拝〉という構造なのです。フーコーがそこで注意を促すのは、この「精神医学」の成立の条件が、医学的な知の発展〈ではない〉ということなのです。
保護院で求められるのは、医学的な知よりも、法律上・道徳上の保証だったからなのです。
医師はブルジョワ社会の秩序・家族・道徳の権威を体現する者になったのです。医師は「父」および「審判者」として、狂気という〈罪〉を背負った〈子供〉=〈患者〉を裁く者となったのです。
これは19世紀以降、隠ぺいされ、忘却された記憶なのです。精神医学はそもそも〈道徳〉中心の実践であるという〈事実〉、精神医学の〈道徳的起源〉は忘れ去られ、現在に至るのです。
これが狂気の出自であり、同時に西洋的理性の系譜なのです。
以上、『狂気の歴史』より。……なのね。
この本には、のちのフーコーの本の、いろんなエッセンスが含まれているけど……やりきれないわね。今は、説明する気分じゃないわ。
ですね。理科のお金でカルビクッパを食べに、焼き肉屋へ行くとするのです。
なんだかなぁ……。
なに、泣いてるのです、理科?
なんでもないわよ。
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登場人物紹介

【田山理科】

 主人公にして家主。妹のちづちづと知らない町に引っ越し、二人で暮らしを始めたが、ちづちづがどこからか拾ってきた少女・みっしーも同居することに。趣味は絵を描くこと。ペインティングナイフを武器にする。

【みっしー】

 死神少女。十王庁からやってきた。土地勘がないため力尽きそうなところをちづちづに拾われて、そのまま居候することに。大鎌(ハネムーン・スライサー)を武器に、縁切りを司る仕事をしていた死神である。

【ちづちづ】

 理科の妹。背が低く、小学生と間違われるが、中学生である。お姉ちゃん大好きっ娘。いつもおどおどしているが、気の強い一面をときたま見せる。みっしーとは友達感覚。

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