【補遺】ピカレスクの華を(下)
文字数 2,052文字
さて。ロマン主義の問題点は、個人の主観性の際限なき肥大化。これをカール・シュミットは個人個人の主観性が想像力によって自らを絶対的なものへと展開していくための起因にすぎない、と言ったのです。これを「主観主義的な機会主義」と言ったカール・シュミットは、この『ロマン主義』を、なんらかの「決断」を迫るものとの真剣な対立が存在しない、つまり「決断をしない」振る舞いなのだと断じたのです。
そこで出したのが『決断主義』と呼ばれることになる考え方だったのです。しかし、批判者たちによって、シュミットの『決断主義』はそれ自体が、その都度に、状況に応じて身を合わせるだけのロマン主義的な機会主義だろう、と指摘されてしまったのです。
『ロマン主義』がダメなので出した『決断主義』でしたが、シュミットの考える『主権理論』は、最悪な帰結を招いた。その挫折から戦後、主権権力について考察をしたシュミットでしたが、出てきたのはペシミスティックにも映るパラドクスだったのです。
現代とは個人の理念が直接的に関係することを許さない『間接性の時代』だ、と。じゃあ、理念の実現をするには、どう生きていけばいいか、というとき、個人は国家の規範体系を通じて法理念の献身を行えばいい、とシュミットは考えた。
さっき、みっしーが言った「ロマン主義」とは、シュミットの定義によれば、外界にあるすべてのものが、主観性が想像力によって自らを絶対的なものに展開していくための起因にすぎないものだ、とする考え方。言い換えれば、客観的なものはなんであれ、「個人」が世界を詩化し、芸術作品に仕上げるための単なるきっかけに切り下げられる、とする考え方ね。
自由の定義ってのがあるのです。二択問題があった場合、その二択からも「選ばない」自由があるのです。選択しない自由。それはともかく、個人が個人を詩的に高めるために客観的なものを扱う(自由主義=ロマン主義)としたら、外界が二の次になるのです。そりゃまずいとしたのです。
まあ、要するに一致団結して国家に尽くすのが、結果的には個人が「間接性の」価値や尊厳を得る契機にもなるんだぜ、と説いた。で、実際それで進んだのだけど、全体主義ってことになった。で、先の大戦の結果は誰でも知ってる。そうなった。
ロマン主義の肥大化でダメになったのを決断理論と国家理性でどうにかしようとしたけど、それはできなかった。権力には構造的に限界があった。……というところね。筆が至らなかったと思うので、それはごめんなさいね。