アルトーに続く道(下:知略ゲームについて)
文字数 2,575文字
ロジックが違う同士がぶつかるのですよ? 相手を理解するのを大半のひとはアレルギー反応のように、反射的に避け、嫌う。よって話は破綻するし、それを織り込み済みでアクションを双方の陣営は起こすしかないのです。
なのです。理解したうえで、双方は戦術ゲームを戦うことになるし、その戦術ゲームこそがコンテンポラリーアートの得意とするところだったはずです。が、「大衆というのはパワーは持ってても方向性を持たない」ものなのです。吉本隆明風に言うなら。
と、いうことで単なるパワーゲームになって力と勢いがある方が勝つに決まっているし、それだってわかっていたことでしょう。地域住民にとっては迷惑だったと言って終わるのはいつものパターンね。2013年「広島!!!!!展」での『Chim↑Pom』を思い起こして欲しいわね。
焦点が公費だ、って言うのがあったのですが、それに関しては「当たり前だ」という話で、「公費でやらないと意味がなかった」というのが正しいのです。そこまでは現代美術のファンなら当然、わかることなのですよ。ただ、なんでそれが「正しい」のかを、ほぼみんな知らないし、知ったところで「ふざけんな!」って言われて終わるのですが、言わざるを得ないのですよ。
公費でやる、そのロジックはなにかというと、現代美術は市民革命後のヨーロッパのロジックなのです。公権力に対する「抵抗権」を「市民」は持っていて、常にこの暴力装置である国家を監視しておかないと、暴発すると考えるのです。
つまり、「権力」や「権威」を笠に着ることによって、アートはアートとして力を持つ。逆説的に、それを利用して、異形のものを「化けさせる」ことが「可能」なので、その『制度』を「利用」して、化けるのではなく、化けさせる、という「戦略をとる」ことが多くあるのです。
例えば国家という化け物によってアートという化け物をつくることも可能なので、それは実に多くあって、その意味でアートをアートたらしめるために、公費でなければならなかったのです。もちろん、憲法というのは国家を縛るためのものであり、そこに自由とか言って作品を食い込ませるためには、ほかの権威、つまり民間の権威ではダメだったという意見もあるでしょうが、そこは微妙なところなので保留です。
八月革命説、というのがあるのです。学校ではお仕着せけんぽーで急ごしらえしたように習うのですが、そんなことはなく、国として続いて行き、延長線上に日本国憲法がある、とする話です。前にボクがひとと話していてその話題になったら「詭弁だよ、それは」と言われてしまったのですがね。
大日本帝国が敗戦して、新憲法の草案をつくらせられたのですが、天皇主権のままだったことも含め、読んだGHQに「これじゃ前となにも変わらない」と却下され、マッカーサー草案が出されます。それをほぼそのままにしてつくられたのが日本国憲法ですね。
でも、日本国憲法には『上論』があるのです。「朕は……」で始まる文章で、これが上論といって、憲法制定における天皇の形式的な「おことば」です。憲法の一部ではないのですが(日本国憲法というタイトルの前に書かれているから)、天皇が帝国憲法の改正として制定させた欽定憲法で、主権を国民にするために、憲法を手続き的に改正したのである、ということを、それは表わしているのですよ。ざっくり言うと。これを、『八月革命説』と呼ぶのです。
そうなのですよ。ですが、ボクは観に行ってないので、それ以上深入りするにも情報がないのです。ただ、ボクは会田誠さんの作品(『戦争画リターンズ』など)を観に行っているので、お馴染みのテーマのようにも思えるのですよ。ただ、戦略や、今理科が言った「ターゲット設定もうまく出来ていなかった」というのは、思うところではあるのです。