アルトーに続く道(下:知略ゲームについて)

文字数 2,575文字

ちょっと話を現代美術に戻すのです。
半年ぶりに『死神はいつも嘘を吐く』の更新があると思ったら杜撰な始まり方だねっ!?
まあ、訊こうじゃないの、みっしー。要はあのトリエンナーレの話よね。結局は「ふざけんな」って話で決着はつく流れだし、別にそれに反対かというとそうでもないでしょ。
先に予防線を張っておくと、なのですが(コロナ禍の中で予防線だなんて単語、笑えるのですが)。
ロジックが違う同士がぶつかるのですよ? 相手を理解するのを大半のひとはアレルギー反応のように、反射的に避け、嫌う。よって話は破綻するし、それを織り込み済みでアクションを双方の陣営は起こすしかないのです。
もし相手を理解したとしても仲良くはできないわね。
なのです。理解したうえで、双方は戦術ゲームを戦うことになるし、その戦術ゲームこそがコンテンポラリーアートの得意とするところだったはずです。が、「大衆というのはパワーは持ってても方向性を持たない」ものなのです。吉本隆明風に言うなら。
と、いうことで単なるパワーゲームになって力と勢いがある方が勝つに決まっているし、それだってわかっていたことでしょう。地域住民にとっては迷惑だったと言って終わるのはいつものパターンね。2013年「広島!!!!!展」での『Chim↑Pom』を思い起こして欲しいわね。
え? で? このお話、それで終わりじゃないの?(イカソウメンをもぐもぐ食べ始める)
蛇足をするわけね。蛇足は蛇足でしかないと思うけど。最初の予防線とやらに繋がるのは想像できるわね。ていうか内容も手に取るようにわかる。これ、わざわざ言う必要あるのかしら。
それは承知して言うのですよ。一応、言った方がいいと思って。
焦点が公費だ、って言うのがあったのですが、それに関しては「当たり前だ」という話で、「公費でやらないと意味がなかった」というのが正しいのです。そこまでは現代美術のファンなら当然、わかることなのですよ。ただ、なんでそれが「正しい」のかを、ほぼみんな知らないし、知ったところで「ふざけんな!」って言われて終わるのですが、言わざるを得ないのですよ。
公費でやる、そのロジックはなにかというと、現代美術は市民革命後のヨーロッパのロジックなのです。公権力に対する「抵抗権」を「市民」は持っていて、常にこの暴力装置である国家を監視しておかないと、暴発すると考えるのです。
美術館に置かれたときに、アート作品はアート作品になるのです。いつも言ってる話ですね。美術館という装置に置かれることにより、それは工芸品でも工業製品でもなく、アートはアートになるのです。
つまり、「権力」や「権威」を笠に着ることによって、アートはアートとして力を持つ。逆説的に、それを利用して、異形のものを「化けさせる」ことが「可能」なので、その『制度』を「利用」して、化けるのではなく、化けさせる、という「戦略をとる」ことが多くあるのです。
例えば国家という化け物によってアートという化け物をつくることも可能なので、それは実に多くあって、その意味でアートをアートたらしめるために、公費でなければならなかったのです。もちろん、憲法というのは国家を縛るためのものであり、そこに自由とか言って作品を食い込ませるためには、ほかの権威、つまり民間の権威ではダメだったという意見もあるでしょうが、そこは微妙なところなので保留です。
ただし、公権力の力を得るという発想の時点で、それは利用した奴は自分もギロチン行きで首を刎ねられることは覚悟できなきゃ嘘よね。つまり、この話はそれで済んだはず。
でも、日本で西洋の市民社会のロジックを行使するのは難しいわよね。日本という国、正確には国の成り立ちを考えなくちゃならない。革命でギロチンにかけることを経験していないのは有名な話よね。
八月革命説、というのがあるのです。学校ではお仕着せけんぽーで急ごしらえしたように習うのですが、そんなことはなく、国として続いて行き、延長線上に日本国憲法がある、とする話です。前にボクがひとと話していてその話題になったら「詭弁だよ、それは」と言われてしまったのですがね。
大日本帝国が敗戦して、新憲法の草案をつくらせられたのですが、天皇主権のままだったことも含め、読んだGHQに「これじゃ前となにも変わらない」と却下され、マッカーサー草案が出されます。それをほぼそのままにしてつくられたのが日本国憲法ですね。
マッカーサー草案は天皇の地位を国の元首と位置づけること、戦争の放棄、封建制の廃止の三原則を基礎としたのでした。
でも、日本国憲法には『上論』があるのです。「朕は……」で始まる文章で、これが上論といって、憲法制定における天皇の形式的な「おことば」です。憲法の一部ではないのですが(日本国憲法というタイトルの前に書かれているから)、天皇が帝国憲法の改正として制定させた欽定憲法で、主権を国民にするために、憲法を手続き的に改正したのである、ということを、それは表わしているのですよ。ざっくり言うと。これを、『八月革命説』と呼ぶのです。
と、いうわけで象徴天皇制になったのでした。それは、そういう手続きがあって、それまでの歴史の延長線上にある、ということ、つまり、憲法は全く別物ではなくて、改正されて今の憲法になった、という話ね。
西洋のロジックは効かないけど、敗戦で言いなりになったわけではないのだー、という説という見方もできるのです。
なんだか話がみえなくなっちゃったよ!
この場合、今回の件は、権力、権威というもののターゲット設定も、うまく出来ていなかったように、今の話だと見えてくるわね、わたしには。
そうなのですよ。ですが、ボクは観に行ってないので、それ以上深入りするにも情報がないのです。ただ、ボクは会田誠さんの作品(『戦争画リターンズ』など)を観に行っているので、お馴染みのテーマのようにも思えるのですよ。ただ、戦略や、今理科が言った「ターゲット設定もうまく出来ていなかった」というのは、思うところではあるのです。
これがもともとも知略ゲームの色彩を帯びているのだから、そりゃ部外者が口出すまでもないことなのでした。戦略的に、負けたのかもしれないのです。勝ち負けの問題にすり替えるならば、ですがね。
なんだか……とても蛇足だったねっ!!
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登場人物紹介

【田山理科】

 主人公にして家主。妹のちづちづと知らない町に引っ越し、二人で暮らしを始めたが、ちづちづがどこからか拾ってきた少女・みっしーも同居することに。趣味は絵を描くこと。ペインティングナイフを武器にする。

【みっしー】

 死神少女。十王庁からやってきた。土地勘がないため力尽きそうなところをちづちづに拾われて、そのまま居候することに。大鎌(ハネムーン・スライサー)を武器に、縁切りを司る仕事をしていた死神である。

【ちづちづ】

 理科の妹。背が低く、小学生と間違われるが、中学生である。お姉ちゃん大好きっ娘。いつもおどおどしているが、気の強い一面をときたま見せる。みっしーとは友達感覚。

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