理性の系譜【第四話】
文字数 2,203文字
18世紀の医学は、外的環境からの影響に左右される身体の身体性、器官から器官への影響伝達を可能化する連続性、神経線維の刺激感応性といった概念を発展させたのです。そして、ヒステリーとヒポコンデリーを「神経症」に同化させたのです。
ここでわたしの持論を入れるけど、時代によって「こころの病気」には流行り廃れがある。フロイトの頃はヒステリーが世界中で大流行した。その次にうつ病の時代で、少し前までは統合失調症の時代だった。今は発達障害。流行りになると、なんでもヒステリー、なんでも統合失調症にさせられる可能性が高い。発達障害に関していえば、DSM(精神障害の診断と統計マニュアル)の最新版での分類が、より詳しくなったからって部分が高い。今までだったら発達障害と認められなかった層が、発達障害と〈DSMで〉診断されることになる。同様に、SF作家のダニエル・キースが多重人格の話を書いたら、多重人格と診断される患者が増えた、という笑えない話もあるわ。
で。さっきボクが述べたような概念は、純粋に医学的な発展を遂げる前に、道徳的判断を帯びるのです。なぜかと言うと、神経症につきものの錯誤や夢想をもたらす「神経」の異常な興奮の原因が、生活の不自然さ、小説の耽読、観劇や学問への度を越えた情熱といった、規範からの逸脱に求められるからなのです。
ここんとこで重要なのが、病気の原因を突き止め、それにふさわしい処置を施し、病気全体の根絶をする「治療」の実践が練り上げられていくことなのです。これで理論と実践が関連を持ち、医師と患者の直接的な一対一の関係がそれを裏打ちすることとなるのです。
R.D.レインのときに言ったけど、実践を自分の理論に都合が良いように仕立て上げる医師がいたのも、確かよ。例えば脳の病気じゃないか、と考えたとき、人道主義がなかった頃の医者が脳を開けていじったりした話を忘れてはいけないわ。それに、精神病薬は「ほかの病気の薬が偶然効いた」ことがもとになって使われ始めた場合が多いことも、同時に忘れないでね。でも、それはまだ、先の話。
団体じゃなくて、オッサンが自主的に素手を突っ込んで空き缶拾いしていたので、これで空き缶をビニール袋に入れて持ち帰ったら、途中だけ見たひとは狂ったオッサンだと思うでしょうよ。通学路だったし、そこの道。善意でやってるのに、善良(笑)なPTAなどに通報される、つまり〈案件〉にされるかもしれないし、バカなガキからは「空き缶のオッサン」とかなんとか名前つけられてげらげら笑われるだけよ。そう思うと、集団ごみ拾いなどではないと、空き缶拾いすらできない環境になっているのかもしれない。
いろんな国で、精神病棟は「見世物小屋」だった、という話、現実ですからね。日本も、サーカスにはその要素が色濃く出ていたのは、消されていく記憶でもあるのです。〈見世物小屋の復権〉と言って天井桟敷という劇団を始めた、寺山修司の映画を観ると、今でもわかるのですよ、そういうのが。戯曲は言うに及ばず、そういうもののオンパレードなのです。
とりあえず、〈非理性的〉だ、と捉えられてしまうと、狂気の烙印を押され、それは怖がられるだけでなく、蔑視の対象となるのは今も変わらないのです。ボクらのテーゼを思い出すのです。「こころの病は、社会的な病」なのですよ? 自分が間違っているのか、社会が間違っているのか、難しい場面は多いのです。理性とは。論理とは。それも見ていくのです、理科。
それでは、次回へつづく!